不老不死は、太古の昔から人々の究極の夢でした。しかし残念ながら、形あるものはすべて、時の流れとともに摩耗し、崩れていきます。それは大自然の根本原則であり、わたしたちの生命もむろん例外ではありません。老化は、年齢を重ねるにつれ徐々に起こる複雑で多面的な過程であり、まさに風化に似ています。あたかも、豪華絢爛に建てられた荘厳な宮殿が長い歳月のうちに傷み、色褪せていくように・・・。しかし、生物個体の老化と、それに続く死がなければ、常に変化しながら秩序を保って存在しているこの地球の生態系は破綻してしまいます。そもそも生物の定義のひとつは「新たな生命を作る(自己複製する)ことができるもの」といわれています。現象的には、新しい生命のために古い生命は老化し、死を迎えることになっているのです。したがって老化は、新しい世代が健全に育ち、種を存続させる上で、人間を含めてあらゆる生物にとって必須なことなのでしょう。
人の一生は通常、この世に生を受けて成熟し老いて、やがて病気を患い、死に至ります。いわゆる仏教でいう「生老病死」です。老化は誰にでも平等一律に起こってくるものです。そしてこれに合わせ、社会的な役割からの引退や配偶者などの身近な人との死別など、さまざまな喪失体験が重なっていきます。そのような中で、過去の自分の人生と現在を生きる自分の生活、そして残された人生をどのように受け入れ、まとめ上げていくのかが、老年期の課題といってよいのかもしれません。その際、日々における老化の多彩な徴侯は別の新たな生き方の始まりを示すものであり、肉体の衰えは、むしろ精神の成熟に向けられているのだ、と視点を変えることが鍵となります。総じて人の営みは、年を重ねるにつれ、生産的活動から内省へ、そして社会での有用性から個人としての品格の確立へと向かうことが望ましいからです。
仏教の開祖釈尊は、生老病死の苦悩を、生きとし生けるものの避け難い真実であると説きました。これはわたしたちにとって、徹底した悲観主義のように映ります。しかし釈尊はこのように苦悩の真実を説くことによって、人々に悲しみを与えようとしたのではありません。むしろ人間の根本に纏わる苦悩の真実を示すことで、放埒で無定見な人生観から目覚めさせようとしたのです。とりわけ、老化を好ましくないことと考え、無理に若さを繕おうとすれば、これは若さへの執着という醜さを曝し、後半生においていっそうの精神的な焦りと苦しみをもたらすだけです。老年期を迎えた際に生きがいをいかに得るかは、現状に対してどのような態度で臨むかという問題と密接に関係しています。青壮年期には外向的な活動、たとえば見知らぬ土地を訪ね、新しい知識を求め、財産や地位を獲得し、常に新たな対象を見いだすことに充実感をおぼえるものですが、年を取るとそうした努力の重点は次第に内面的な方向へと移行していくことが求められます。そして老年期にあっては、物を「所有」することの代わりに、自分自身の「存在」意義を深く掘り下げ、追求していかねばなりません。「自分は何を持っているか」ではなく、自分はこれまでの日々を総括してどういう人間であったのか、ということへの認識が重要となります。老いを考えることは、すなわち自身の人生全体を俯瞰することでもあります。
わたしたちは、どうしても老化を苦しみ、厭うべきものと考えがちです。たしかに「老苦」とは、文字通り、老いる苦しみを示す言葉です。人間である以上、必ず訪れる老化を原因とした様々な肉体的・精神的変容の現実をいかに受け止めるか。苦悩の実体、それはこの現実を認めたくないという心の葛藤そのものです。この苦悩は、事実に対してそうあって欲しくないという反動の感情から生まれる不安感といってもよいでしょう。近代科学の考え方は、時代の進展とともに人類や社会が常に上昇曲線を描き、進歩していくはずであるという前提に立っています。しかし個体としての人間はどうかというと、誰もが経験するように、最初は体力・知力ともに上向きですが、成人後は時間とともにその曲線が下がるばかりになっていく。この矛盾した状況に抗する心の焦りが不安感の源です。加えて、人生の中で老いの部分をどう位置づけるかという問題は、老後期間が長くなる一方の現代において、社会的にほとんど検討されてこなかったことも事実です。その傍ら、世の中ではあらゆる手段を駆使して老いを食い止めようとする試みがなされています。人間の生物学上の寿命の上限は約120歳といわれていますが、このところ話題のiPS細胞を利用して臓器の再生が可能になれば、傷んだ臓器を取り替えることによって、近い将来、その上限はもっと延びるかもしれません。しかし、人間の寿命が延びることが無条件に良いことかどうかは現実社会にとって難しい問題です。社会の諸制度が長寿を受け容れることができるような状態にならなければ、かえって混乱と悲劇が生じかねないでしょう。
現代社会は、若くありたい、健康でありたいと、若さや健康の維持を追求するあまり、老いることの意味が見失われた状況に陥っているような感があります。若さと老いを比較して、若い方が無条件に望ましいと誰もが考え、成熟を拒否する文化、いわば若者文化がもてはやされているかのようです。ある意味で、現代人は年の取り方が分からなくなっているのです。常に若さや健康を維持してゆくためには、その対極にある老いを我が身に近づけないように日々涙ぐましい努力をしなければなりません。実際、TVや雑誌でも、年齢の進みに逆行する、いわゆる抗老化(アンチエイジング)的な要素の薬剤や商品の話題や宣伝が氾濫しています。少しでも老化を先に延ばそうと、今の日本は老いも若きも人々がこぞって奮闘しているといっても過言ではありません。
しかし、たとえば自殺願望者が「死んでしまいたい」と思って川や海に飛び込んだとしても、その全身は必ずや本能的にもがき苦しむはずです。いくら頭で「わたし」が死にたいと念じても、その肉体の諸器官は本人の意思にかかわりなく「生きたい」と懸命に反応するでしょう。抗老化への取り組みは、いうならばそれと真逆のことをしているようなものです。それは、体全体が年老いて疲れ、休息を求めているにもかかわらず、当の「わたし」は自らの肉体に鞭打って老いの進行に抗い、無益な戦いを挑むという構図になっているのです。若さや健康の維持を前提とした生活態度を中心に続けていけば、いずれ老いを受け入れなくてはならない時期を迎えた際に、為す術もなくなります。さらには、老親を介護する場合などでも、それまで親が普通に処理できていた日常の動作が一つ、二つと徐々に困難もしくは不能となってくれば、そのことを否定的にとらえ、往時の元気な親に戻らないかと気持は焦りますが、日々顕在化していく老化衰弱の過酷な現実を前にして失意と絶望を味わうこととなります。事ほど左様に、親の老いですら受け入れ難ければ、自分自身の老いを受け入れられないのは、当然の有り様です。
日本は戦後、奇跡的ともいえるほどの短期間で世界に冠たる長寿社会を実現しました。他方で、国民の多くは長命それ自体が決して人生の目的でないという現実にも気づきつつあります。とりわけ、社会的な定年という区切りを迎えて高齢期に入ろうとするいわゆる団塊の世代が、今後、老病死をどう受け取っていくかは、きわめて今日的な課題であるといえます。定年退職や還暦という節目を無事にやり過ごしたとしても、その後の人生のあり方を考えるときの戸惑いや迷いの現実がはからずも露呈する状況となっています。ちなみに仏教の立場は、老苦の存在が厳然たる事実である以上、人はそうした苦悩を透徹した実相の把握によって打破し、その呪縛を自ら解き放たねばならない、というものです。これを仏教では「諦」という概念で総括します。言うまでもなく、「諦める(あきらめる)」という語は通常、何かを断念したり、ある事情について已むなく仕方がないと受け入れる、などのことを指します。一方、仏教における「諦める」の原義は、「あきらかにみる」です。では何をあきらかにみるのか。それは、この世の森羅万象にはすべて既知未知を問わず原因があり、その結果がある、という因果の道理を「明らかに見る」ことです。つまり、わたしたちは現状を受認することにより、新たな心機の一転をめざすのです。
人間は誰しも、生まれた時に親や周囲の人の世話になり、老いた時には再び人の世話にならなければなりません。それは人間の宿命でもあるが故に、育児と介護は個人のみならず人類社会の最も根源的な問題であり続けてきました。健康を謳歌し、人からの世話や保護を受けずに生きていける年代ではなく、人の助けがなければ生きられない年代にこそ、人生の厳しい本質は隠されているのです。年を取るという過程は、すべての人がやがて必ず辿る道であり、それはすなわち自分の道でもあります。しかし、老いを自分らしく生きることについて、「こうすればよい」といった指南書はこの世のどこにも存在しません。それは、あくまでこれまで自分自身がどう生きてきたかの延長線上にあるからです。
老いを悲観して喪失期ととらえて日々を過ごすか否かは、一人ひとりの心構え次第です。しかしひとつ言えることは、老いることで新しく見えてくるものがいろいろあることも事実であり、老いに対する観念を千篇一律にみなす必要はありません。年を重ねて失うものもあれば、代わりに新しく得る世界があり、結局は人生の損得勘定は五分五分であると割り切る潔さも頭に入れておいてよいかもしれません。往昔の諺には、「老いては子に従え」とその衰えを指摘するものがある反面、「老いたる馬は路を忘れず」とその知恵を評価するものがあります。子供は理屈道理こそ知りませんが、物事の本質をとらえる直観に恵まれ、大人は知識情報を山ほど得ている一方で、心身の反射性や柔軟性が失われています。働き盛りの人は社会の中核を担う勢いこそありますが私的な暇がなく、社会の一線から退いた人には、日々の変化こそ少ないものの落ち着いた時間が流れています。そうした日常において花鳥風月を愛でる泰然自若としたゆとりが持てるようになれば、穏やかで清々した気分が訪れるはずです。それもまた、老いに伴う自然からの恩恵です。このように考えると、人生で得るものと失うものの案配は思いのほか公平にできているといえます。
老年期というのは、自分がこれまで生きてきた年月の集積におけるひとつの結果であり、それまでの人生や考え方の影響が色濃く反映されています。したがって、老年期にさしかかってから、いざ生活を組み立て直そうとしてもなかなか首尾よくいきません。そうであるからこそ、若い頃から「老いるとはどういうことか」を、真剣に考えておく必要があるのでしょう。年を取ると、今まで通りには物事を思うように処理できなくなりますが、それは、年を取ってできなくなるのではなく、できることの内容が変わってくるからです。人間の「獲得」と「喪失」は、生涯に渡って存続するものです。つまり、年を重ねて亡くなるまでの期間にも、人は得るものが必ずあるということです。逆に言えば、若い頃でも失うものはいくらでもあり、一生の中で得喪が幾度も繰り返されるのです。
人間は誕生から死亡まで、間断なく環境に適用しようと発達を遂げていく存在です。老年期が人生の中で特別な時期ではなく、人生の中で欠く事のできない一段階である、という認識を持つことが肝要です。それと同時に、自分の一生に敢えて一貫性を持たせようとするあまり、「自己実現」という言葉に過剰な期待を寄せることは、老いをとらえる上で要注意です。何かの自己実現を目指すことはむろん否定されるべきものではありませんが、それのみを人生の理想と考える人からみれば、老化を感じ始めた時点で老後の第二の人生は無意味なものに転じてしまう可能性があります。その点で、現代の日本人は、一生を通じて一つの価値観あるいは人生観を貫かなければならないという強迫観念に取り憑かれている傾向があります。しかし、わたしたちは加齢と共に人生観を変えていかなければなりません。いわば夏服が冬の季節には合わないように、老境になれば、若く盛んだった頃と相違した見方、感じ方、とらえ方をすることは自然であり、またそうすべきです。
おそらく、老いをめぐりすべての人を不安に追い込むのは、自分がいつ、どのように老いて病にかかり、どれだけ心身が苦しいのかわからないことでしょう。人は心身状況の変化に多少なりとも抵抗することはできますが、最終的にはそれを一方的に受け入れるしかありません。したがって、老いが生きとし生けるものすべてにとってきわめて自然な現象である以上、恐怖感や不安感に襲われながら暮らしていること自体が実は不合理なことです。それは、「現在」の自分自身から何かが失われて減算されることばかりを考えているため、老いの現象が無性に厭わしいのです。この考え方の基本になっているのは「現在の価値観」です。それをそのまま未来の自分に当てはめようとすることは、理不尽な思考であると言わざるを得ません。一年後には一年後、十年後には十年後の自分がいて、社会や世界があります。それを現時点での自分の頭で想像して作り上げても、そのほとんどは的外れなことばかりになるのは火を見るよりも明らかです。我が身に起こりつつある老化という変化への戸惑いや違和感はそもそも、自分はいつまでも変わらない若い体や気持ちを持ち続けられるという根拠なき思い込みがあるからです。間違ったものの見方をすることを仏教では「邪見」と言いますが、自分は変わらない、変わるはずはないと決めつけていると、そこから思い通りにならないことが増えるばかりとなります。「変化」はたしかに「苦」の一因でもありますが、邪見を排し、変化に対する現状認識を絶えず新たにしていく姿勢が、老いの色が心身の各所に滲み始めた時期にこそ必要となるのです。
年を取ると、その眼差しはどうしても詠嘆的になります。老いとは端的に言えば、自分の心身の限界と終着点を予感し始めることです。「わたしの人生はこれで良かったのだろうか」との思いは、青壮年期を終え初老に差し掛かるあたりから、多くの人の前に立ち塞がる執拗な疑問です。それと同時並行的に、別の道を歩んだなら別のさらに充実した人生があったのではないか、との悔恨疑念は非常な切迫感をもって襲ってきます。他方で、「努力はいつかは必ず報われる」という教条に対して、果たして自分は今まで報われるほどの努力をしてきただろうかと自問するならば、些か赤面する人が多いのではないのでしょうか。老境に入り、自分の人生は「これで良かったのだ」と覚悟徹底できる人こそ、仏教的諦観をわきまえた人と言えます。誰しも、意識するとしないとにかかわらず、人生における様々な分岐点において自分の人生を賭けながら真剣勝負で選択するものです。そうした無数の選択を経て今の「わたし」があることは紛れもない事実だからです。たしかに人間には生きている限り、迷いがついてまわるものです。生きるということは、さまざまな選択の連続ですから、不断に迷いが起こることは避けられません。
老いは、青年期にはひとつの観念に過ぎませんが、中年期にはそれが予感となり、老年期ともなれば肌身にこたえる実感となります。そして、老いに伴う寂寥とした感覚、身内や友人との死別で感じる無常などを募らせていきます。しかし、東洋には古来から「無為自然」という思想があります。これは、老いることについても、自然に与えられたものであるならば、それに抗う必要はないという人生観を意味します。「無為自然」なる姿勢を通して、この世の生きとし生けるもの一切を育み滅せしめている大いなる天命の力に全幅の信頼で我が身を委ねたときに、わたしたちは年齢の如何を問わず安心立命の心境が得られるのです。本来、生と死も一つにつながっているものであり、決して切り離されてはいません。一日生きれば、死が一日近づくことは自明の理です。しかし人生の意義は、若き日の輝きや壮年の活力だけにとどまるものではありません。老いへの理解と老境の諦観があればこそ、人生を滋味深いものとして振り返ることができるでしょう。
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