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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

自分を認めて欲しいという心理

 近年、インターネット環境の急速な発展により、わたしたちは居ながらにして膨大な情報を瞬時に手に入れることができるようになりました。一方、それと並行するかたちで、ネット上での個人の発信が社会の動向に大きな影響を及ぼしつつあります。加えて、知人や世間からの認知または評価を得たいがためにネットを利用する人の数が、日本のみならず世界中で爆発的に増えています。その欲求の有効な捌け口として登場してきたのが、個人的な意見や発言を自由に書き込める「交流サイト」(ツイッター、フェイスブック、LINEなど)です。いつでも好きな時に自分の日常を開示できるこれらの通信サービスは、悩みに共感してくれる人や自分の事を認めてくれる人を見出す格好の場となりました。高度情報化社会の現代は、いわゆる「承認欲求」が増幅した時代、あるいは逆に人から承認されないことへの不安に満ちた時代なのかもしれません。しかし、個人の発言は瞬時に世の中に拡散されるため、生の人間関係とは異質で振幅の激しい評価動向に影響を受けて振り回される可能性もあります。

 ネットを通じて世の中の誰からも認めてもらうことが理論的には可能であるということは、反面において「誰からも認めてもらいたい」という際限のない欲望を生むことにも直結します。人々の承認欲求への過度な傾斜それ自体は、決してネット社会になってから生じた新しい現象ではありませんが、人との繋がりを確認するだけでなく、人からの関心を集める目的を意識した行動(極端な悪例として、無差別な殺傷や放火などの凶悪事件をも含む)を新たに引き起こしていることは注目すべき事実です。これは、かつての村社会の中で隣人や地域と協調し、世間体を気にしながら窮屈に生きるのとは違う次元の質的な変容といえます。社会が複雑多様化の度合いを加速しつつある中で、多くの人が自分らしく個性的でありたいと願いながらも、自信が持てずに他者の目を気にしながら生きているのです。

 承認欲求は、財欲、色欲、食欲など共に、人が生まれた時から死ぬまで絶え間なく持ち続ける欲求です。進化の過程で集団生活を営むようになった人類は、その共同体において社交的であることや周囲から好ましく思われることが生存の不可欠な条件でもありました。それは文明が進んだ今日においてもなんら変わっていません。人間を「群れの生き物」の一員として捉えれば、他者から認知してもらうために自分の立ち位置を自己宣伝することはきわめて自然な行為です。承認欲求は、その名の通り「欲求」ですから、当人が切に満たしたいと感じているものです。そして、その満たされていないものを満たそうとする心の働きは、適度に発揮されれば意欲的な行動の源ともなり得ますが、意に反して満たされないと自己不信や自己喪失に陥ってしまう危険性も孕んでいます。現代の特徴的な趨勢として、自分の価値付けについてすら他者からの評価に委ねる傾向が強くなり、他者の承認がなければ自分を認めることにすら思い悩む人が増えています。承認を気にかけて葛藤し続けるあまり言動を抑制しがちな人や、承認を勝ち取るための行動化に逡巡せず周囲との軋轢を意に介さない人などに見られるように、多様な心的病理に「承認」の問題がおそらく深く関わっているのでしょう。

 ちなみに仏教でも、人から認めてもらいたいという深層心理に起因する様々な欲求を「名誉欲」と総称し、その弊害に対して警告を発しています。自分の存在や行動を殊更に吹聴したがる「自己顕示欲」などはまさに名誉欲の代表格ですが、「煩悩」の一つとして人間であるならば誰もが多かれ少なかれ備えている根源的な欲です。口を開けば自分や係累の自慢を並べ立てたる傍ら、他者への蔑視発言を連発するという人は世に少なからずいますが、そう言わせるのは歪んだ名誉欲です。「自慢と悪口は自分の品格を落とし、人を不快にさせるだけだ」と公言して憚らない人も、その信条を持つ自分に自尊心を持ち、そこを他者に評価してもらいたいという密かな思いが伏在しているのですから、一種の名誉欲に違いありません。さらには、いかに自分が不幸な境遇にいるかを切々と訴えることによって周囲の同情や共感を集めようとする、「不幸自慢」という名誉欲の裏返しともみなせる屈折した手段が用いられる場合もあります。しかしやはり、よほどの自信家でない限り、わたしたちには自分のことを理解し、認めてくれる存在が時には必要なものです。よく耳にする「自分の居場所がない」という場合の「居場所」とは、自分を「認めてくれる場」にほかなりません。空間的にそこに居る余地がないということだけではなく、その場において当人の在り方が無視され、認められていないということです。個人への「承認」の有無が社会や家庭の深刻な問題に発展する場合があるとすれば、承認されないことが「居場所」を失うことに等しいからです。また、幼少期に親から愛情を存分に受けず辛い思いをしてきた人は、その時の心の傷が大人になってからも大なり小なり尾を引き、否定されることへの不安、軽蔑されることへの憂慮、見捨てられることへの恐怖などが常に心の中にあります。そうした精神状態の反動によって過度の承認欲求に苦しみ、「認められたい」、「褒められたい」、「愛されたい」という痛切な願望が募るようです。

 人から認められれば自分の価値や存在意義を体感できるというのは、たしかに紛れもない事実です。しかし、認められるためには常に人の評価を気にして生きていかなくてはならない息苦しさがあります。他者からの承認を求め、世間の評価に右往左往する生き方は、「他者の人生」を生きることと同義です。そのような人は自分の考えや見方に自信がなく、絶えず誰かに認められていなければ不安を抱えたままになるでしょう。あるいは、人から少し批判されただけでも、自分の全存在が否定されたかのように落ち込む傾向に陥りがちです。そこまで深刻ではなくとも、自分を認めてもらいたいと思っていても、他者から拒絶されることを恐れて自分を抑えてしまう、等々。最近まで巷間の話題になっていた「忖度」や「おもねり」などという行為の裏側にも、承認欲求が見え隠れしています。かつて社会の側に安定的な価値尺度があった時代には、場の空気や気分によって個々人の評価が大きく揺らぐことはありませんでした。したがって、周囲の人々による一時的評価を過剰に気にかけたり、それに翻弄されることも少なかったのです。場合によっては、「我が道を行く」という風に、自分独自の人生観に忠実に従い続けることも可能でした。しかし、価値観が多元化して個性的な生き方が容認されるようになった今日の社会では、他者の反応を敏感に読み取り、自分に対する周囲の評価を仔細に探っていかなければ、いわば「自己肯定」のための根拠を確認しづらくなりました。その状況を打破するための代替として、特に若者たちは交流サイトなどを通じて身近な人や世間からの承認を求めることに汲々とするようになってきたようです。

 とはいえ、人から認めてもらうことだけが自分の価値だと錯覚している状態が嵩じると、自分の事を認めてくれる人に対しては依存的になり、認めない人に対しては「認めさせてやる」という支配的・攻撃的な姿勢に転じてしまう副作用があります。認められたいという気持ちが他者に向かう場合とは反対に、誰も自分の事を認めてくれないという気持ちから自傷行為に走るようにもなります。他者を傷つけることも自分を傷つけることも本質的には同じ病理現象の表裏であり、承認欲求に囚われすぎて本来の自分自身を見失った結果です。むろん良くも悪くも、人との関わりがその人の幸福感あるいは人生観に大きな影響を与えることは間違いありません。そして願わくば世間から、さらに言えば自分が大切にしている人々から等身大の自分を十全に認めてもらいたいのは万人が抱く共通した思いです。しかし現実には自分の理想通りに承認を得ることはきわめて難しい。所詮、(自分自身を含め)誰しも他者に対して常に関心を向けているわけではないからです。とりわけ今の時代は個々が自由な価値観を持ち、核家族化や単身世帯化が進み、地域や職場での共同体意識も薄れた結果、他者からの承認を得ることがさらに難しくなっています。

 しかしながら、無常の流れの中で万物が変わっていくことがこの世の定めであれば、人から認められないことで自信を完全に失う必要などないのです。他者から褒められ、承認されることによって束の間の満足を実感することはありますが、そこで得られる喜びはあくまで移り気な外部の評価から与えられた一過性のものに過ぎません。冒頭に紹介した交流サイトの盛況は、刹那の承認の度合いを増やし続けることで自らの存在意義に置き換えているに等しいといえます。極論すれば、いわば誰かにネジを巻いてもらわなければ動けない機械仕掛けの人形と変わりません。そうであるならば、常に他者からの承認を受動的に求めているばかりではなく、自らの意思で自らを承認することも必要になるでしょう。「わたし」の価値を他者が決める、あるいは他者から承認を得て一喜一憂するのは、人の意向に大きく依存した生き方であり、精神的に安定した生き方にはなり得ません。その意味からも、承認欲求が病的に嵩じた「他者依存」の状態から脱却するために、「わたし」の価値を自らが確信するという意思を強く持つことが目指すべき方向性として求められます。わたしたちは日常の経験を通して、相手に自分の事を認めてもらいたいと念じる感情が時に人との衝突や自身の内面の葛藤を生み出すことを知っています。そして、通常はそうした苦慮と煩悶を体感することで人間的に成熟していき、最終的に「他者と心底から理解し合うことは所詮できないものだ」という結論を得て、一定の達観に至るようになります。これが人生の一面の真実であり、実はこの理に気がつかないことが承認欲求の悩みに関わる問題なのかもしれません。

 人の気持ちや言葉の中に自分の価値や承認を求めようとする社交の努力は、むしろ自尊心を損ない、無益な気苦労を増すばかりとなることが往々にしてあります。現実社会で展開する人間関係は、自分の思い通りにはいかないのが当たり前であり、時には相手から拒絶され、嫌われ、反論されたりすることもあります。一切の不安や不快のない理想的な人間関係というものは幻想でしかないのです。人に認められたいという気持の度合いを引き下げれば、逆に自由な生き方の地平が延びていくはずです。仏教において「悟りを開く」という境地には、ある意味で「承認欲求」の呪縛から我が身を解き放つことも含まれます。これはまさしく、現代の「解脱」とみなしてよいものです。振り返ってみれば、わたしたちは自分自身ですらこの「わたし」に対して常に不動の評価や認識をしているわけではありません。年齢を重ねるにつれ、己に対する自身の見方も自然に変わっていきます。また、他者の目に映る「わたし」が本当のわたしなのかという懐疑は、最終的に次のような問いに収斂していくでしょう—-他者から関心を寄せられなくなった時点で「わたし」の存在意義が失われてしまうのか、自分を視てくれる他者が一人でも多くいれば果たして「わたし」は幸せなのか、と。

 ある仏教経典(『スッタニパータ』)の中には、「犀の角のようにただ独り歩め」という言葉が残されています。これは、「犀の頭頂部にそそり立つ太い一本角のように、独りで自らの歩みを進めよ」という意味です。別言すれば、周囲からの毀誉褒貶に煩わされることなく己の確信に従って生きよ、と解釈できるでしょう。古来インドでは、犀が群れではなく単独で行動する動物とみなされてきました。「犀の角」という比喩表現は、「孤高」を象徴します。仏教が精神の孤高を重視する背景には、わたしたちの悩み事の多くは「人間関係の齟齬や軋轢から起こる」との冷徹な分析があります。つまり、懊悩を生み出す原因が「人との繋がり」にあるのなら、そこから一時的に離れてみることが心の成長と安定に必要であるということです。さらに別な視点として、仏教では「因果の道理」を説き、いかなる結果にも必ず原因があると考えられています。人から認められたいのに承認欲求が満たされないのであれば、自分が人を認めていないという「原因」があるのかもしれません。自分の承認欲求ばかりに目を向けるのではなく、人を認めて評価することで自然と自分も認められるようになる契機に直結する場合があります。逆説的ですが、認められたい人ほど認められず、評価を気にしない人ほど評価されることがよくあります。人間関係とは誠に皮肉なものです。

 ただし、わたしたちにとって、他者からの承認をまったく求めずに孤立無援で生きるという状況はあり得ません。自分がこの世に存在し、現に生きているということは、周囲の身近な人々はもとより、本人の知らない大勢の他者から陰に陽に認められていることなのです。この事を正しく認識していないとすれば、それはとりもなおさず周囲の人たちからの承認を素直に感受していないからです。その背景には、自己を肯定する自覚を持たず、自己に対する信頼が得られていないという状況があります。相対的に自己肯定感が低く、自分に自信がなく、周囲に合わせる傾向の強い人ほど、他者の評価に対する意識が高く、周りから認められることを重視する傾向にあると言われます。自身が自分を認めているか、今の自分に満足しているか、という物差しで自分自身を判断するのは「自己承認」と呼ばれるものですが、自分の中に確たる評価基準を築いていくことができれば、その進展の度合いに比例して「なにがなんでも人から認められたい」という切迫した気持ちも徐々に薄らいでゆくのではないか。そのためには、自分で我が身を認められる状態をつくるべく、自身の特質や長所を意識的に見出す工夫を怠りなくすることが第一歩となります。承認欲求に苦しむ要因の一半には、「自分は自分、人は人」という自立した確固たる「自分自身の価値」を認めていないことが背景にあると考えられます。他者からの評価を自力で左右することができない以上、自分の評価を他者に委ねるのではなく、最終的に自分自身が決するという覚悟が問われるのです。自分のことを無条件に誰よりも認められるのは、ほかでもない「わたし」自身であるという処世の大原則を改めて思い起こす必要があるでしょう。

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