私たち人間は知性が具わっていることにより、かえって過去や未来に対する焦慮の念に始終つきまとわれています。また、屹立する高層建築のように、外部から引きあげる力よりも内面的に支える力がないと、それまでの自信やプライドもあっけなく崩れてしまいます。内面的な支えとなる大きな要素のひとつが心を信じる智慧です。しかし「心を信じる」といっても、自分の心を信じるのではありません。自分自身の中に生まれながらに具わっている大いなる命の心を信じるのです(大いなる命の心とは、「仏心」と言い換えられます)。そして、私たちが逆境や危機に瀕したときこそが、逆に自分を取り巻く自然の山や川や、花や鳥、つまり森羅万象から、自分の生き方やあり方をうなずきとれる能力を心身に伴うきっかけとなります。それは、人間も自然の一員であるということを謙虚に気づいてはじめて得られる心の開眼であると言えましょう。その境地をめざしていけば、天地とひとつに溶け込んだ自分が見えてくるはずです。
人はある段階まで心身が成熟してくると、自分の力では如何ともしがたい現実に気づき、単なる自分の「はからい」では乗り越えられない壁につき当たる経験をするようになります。たとえば、心のリラックスした状態が望ましいということは、確かに頭ではわかります。しかし日常での実際の場面では、緊張して拳に力が入ってしまう。また、臍下の一点に心を静めていればいいのに、つい相手の激昂にいやおうなく反応し、心に波風を起してしまう。その原因はひとえに、ありのままの天地を心底には信じきれていないからです。しかし天地の理は人間界にあるものではなく、また、天地の理に合わないことはどこかに歪みを隠し持っているはずです。それを見極める冷静な知性も、よく考えてみれば、人間に与えられた天地からの授かりものです。その上で、天地と一体となるべく心身の統一をはかり、己の天命を全とうできる主体的な人生を見出していくことが肝要です。そうして得られた精神状態が、「自然に身を委ねる」あるいは「自然の中に生かされていることに目覚める」という姿です。人間の浅薄な「はからい」で生きるのではなく、大きな真実に包まれて生きているという自覚を持つことによって、融通無碍で自在な生き方が得られるようになります。それこそが天地に身を委ねた生き方です。あるいは、自己を超える、ということが「自然な生き方」の極意であり、同時に、人知を超えた大きなはたらきが「自然のはたらき」です。自然な状態が一番安らげる、という自覚を持つことが大事であるといえます。もともと力む必要などないにもかかわらず、私たちは何かにつけて善悪・好悪の分別をし、そのことで苦しんでいるのです。また他と比較して優越感に浸り、あるいは劣等感に苛まれている。ここから脱却しなければ、真の充足感は得られません。ただし、「ありのまま」を「自然体ということだから、何をしてもいい」と勝手に自分に都合よく解釈してしまうことは気をつける必要があります。何をしてもいいというのは、「ありのまま」ではなくて「わがまま」です。「ありのまま」は「わがまま」とはまったく違います。「わがまま」は我の世界です。我が先に立っている状態です。「ありのまま」というのは無我--自意識が取り払われた状態--の世界です。自己を超え、自らの我執が消えている世界です。「ありのまま」と「わがまま」を混同することはたいへん危険です。
さらに、「自然」を考える上でもうひとつの重要なことは、「個」の総和が「全体」なのではなくて、「全体」は「個」同士の複雑な関わりの総体として私たちを取り巻いているという点です。すべては関わり合っていて、個々の人間、動植物、山川草木がそれぞれに独自のはたらきをもって「全体」をつくりあげており、そうしたものの総和の世界を「自然」と呼びます。それは、一つ一つのものが単にバラバラに集まっているのではなく、他との複雑な関わりの中で機能しています。そしてここから、一つ一つの存在が、全体を支えるかけがいのない尊い意味を持つ、ということになります。この「個」は、すなわち「私」です。「私」というものがあるから「全体」も存在するという認識は、非常に大切な視点です。「私」というものがなかったら、「全体」もあり得ません。つまり、全体に対して私というものが責任を負うべき関わりである、という見方です。あるいは「自」と「他」の関係といった場合、これは「自」と「他」というものが単に関わり合っているだけでなく、「他」があるから「自」も存在する一方、「自」もあるからこそ「他」が初めて存在し得るのです。そこから得られる考え方が「共生」です。
「共生」とは本来、二種類の生物がお互いに便益を与えあって生存することを指します。しかし、人類の歴史を冷徹に観察すれば、もっとも特徴的なのは「自己利益」を追求する人間の本性です。しかし、人間の欲望に歯止めがかからず地球環境の悪化や社会病理による人心の疲弊が目を覆うばかりとなり、近年、その本性の追求に限界が見え始めてきたことは言うまでもありません。その結果、たとえば、自然そのものに価値を認めてそれを守ろうという思想などが注目されるようになってきました。これは、工業化によって人間の環境改変能力が飛躍的に増大してきたことと無関係ではないでしょう。そのような思想が徐々に影響力を増してきたとすれば、それは現代社会において「連携を求める本性」が相対的に発言力を増してきたことを示しているとも言えます。しかし、それはまだ強大な「自己利益」の本性と対抗するまでには至っていない。皮肉なことに、地球環境の保護を進めるときでも、あるいは福祉社会の建設を進めるときでも、私たちの「自己利益」の本性に訴えかけなければ、具体的な行動にはなかなか移れないのです。つまり私たちが持続的な社会改善行動に移るのは、人類存亡の危機が迫ったとき(たとえば地球温暖化問題や核保有問題など)であり、あるいは自分の老後の不安が実感させられるとき(年金受給問題や少子高齢化問題など)であるのは、やむをえないとはいえ、悲しい現実としかいいようがありません。
ちなみに環境問題が論じられる際、「人と自然との共生が大事だ」という言葉をよく耳にします。「人」と「自然」とは対等な立場で、前者が後者を尊重するというものです。もちろん、種の保存や生態系の保護の観点から、荒廃や絶滅に向かう自然を守ることは必要です。しかし、自然の聖域を全く侵すことなしに人類の科学技術文明を止めることは、もはや不可能です。すなわち、外的・物質的なものの拡大から、より内的・精神的なものの充実へと文明の軸心を移してゆくことが大事であり、現代の環境問題は究極的には、人間の生きる意味を問い直す人間自身の変革が必要であるということになります。そこで、人類が小さな弱い生き物に対して生きる権利を認め、共に生きる道を探していくなら、人間社会にも平和と愛への希望がもてるようになるのではないか、そして、この自然界の生き物たちによって人間の世界が救われていくのではないか、という考えはきわめて当たり前のように思われます。ただ、こうした「自然観」に問題がないわけではありません。地球のある特定の場所で生まれ育ってきた自然観が、国や民族、時代を超えて永遠に普遍的であり得るのか、そして、それは自然物まで含めることができるのか、という問題があるからです。自然の権利を認めるとは、ある意味で人間と自然が対等の立場にあるということであり、そのためには自然に心や魂、意志がなければならないと考える人々がいます。というよりも、自然に魂があるからこそ、人間と対等、あるいは、人間を越えて神に近い存在なのだとする考え方です。こうし自然観はアイヌ、アメリカンインディアン、オーストラリアのアボリジニなど先住民族の間に見られ、環境の保護を訴える人々に大きな影響を与えてきました。それは人間と自然との交感の営みを通して、現代人が見失しないつつある、あるいは、見失ってしまった人と人の心の通い合いを取り戻そうとする動きでもあるようです。とはいえ、残念ながらこのような考え方は誤解され、低次元のものに貶められ、せいぜい素朴な童話の世界ぐらいにしか見られてきませんでした。しかし、動植物に関する研究や生態系の研究が進むにつれて、人間と自然との素朴な関わりに新しい世界が広がってきています。たとえば、精神医学や老人介護の分野では、動物や植物を用いた心理療法が行われるようになり、いままで人間の衣食住を満たすものとしか見られてこなかった自然が、人間の心や精神を癒す大きな要素としてその価値と重要性がますます評価されつつあるのです。
加えて、人間と自然は階層化されたものでなくて、人間と自然が共生していくような理念に基づく社会にしていかなければならないということが、近年、先進各国でさかんに言われています。これは、生物はそれぞれ独立して生きているのではなくて相互に依存しながら生きており、人間も生態系の中の一員であるという考え方に由来します。人間は、動植物や無機物のすべてと共生することによって生存し、そして生かされていくものだからです。ちなみにその興味深い一例として、ある寄生虫学者(藤田紘一郎:東京医科歯科大学教授)によれば、日本人は古来、回虫とも「共生」していました。戦後、この回虫の感染率の低下に逆比例して、アトピー性皮膚炎、気管支喘息、花粉症などアレルギー性疾患が増えてきました。体内の回虫の撲滅にほぼ成功した日本人は、しかしながら、自分を守ってくれていた「共生菌」まで排除することになった。こうして日本人は「超清潔志向」の民族となってしまい、共生菌の排除が結果的にさまざまな新興感染症に対して脆弱な体質をつくりだしたというのです。
人間と自然との共存を「共生」と言えば、あたかも正論であるかのごとく思われ、俗耳には快く響きます。そのため、政治家や行政は好んで「共生」という言葉を使用します。行政のスローガンには、「~と共に生きる」と同じような意味合いで頻繁に使用されています。しかしよく考えてみると、人間と自然は「共存」の関係にはありません。人間は、自然の一部に生存させてもらっている、というのが実は正しい言い方でしょう。人間は動物や植物等の命を収奪することによってでしか生きることができない存在なのです。人間とはそういう存在なのであるとの認識のもとで、動植物、あるいは広い意味での自然とどのように対応したらよいかを虚心に考えるべきです。しかし現実の世界を見ると、西アジアなどの乾燥灼熱の風土では、自然と人の関わりというものが日本列島の風土とは比較にならないほど痛切に身に迫って感じられます。あの苛烈な環境下では「人に優しい自然」や「お天道様の恵み」などといった概念は到底生まれ得ず、人が戦うべき相手あるいは抗いを許さない絶対者=神の意志の表現として自然を認識するほか仕方がなかったであろうと理解されます。したがって、そうした自然環境下で生まれてきたユダヤ教、キリスト教、イスラム教、それらに基盤を置く現在の西欧やアラブ世界では、万物は人のためにこそ存在する、あるいは人には他の動植物とおなじ魂に加え、神より特別に与えられた霊がある、と考えます。また、それゆえ、霊のない他の動植物を人のためにいかに使おうと、殺そうと、それは神に対する冒涜とならない、などの思想が許されることはあっても、自然と調和してその中で生きると言う概念はなかなか育ちにくいのです。
翻って、人間社会の中で「共生」を考えてみると、それは「権利」の尊重という問題にからんできます。ここ数年、いじめや自殺など命の尊厳と生きる権利について考えさせられる出来事が多いようですが、わが国の憲法第十二条が示すように、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」とあり、権利間の調和の必要性が示されています。自らの幸福を追求し主張することは、誰もが等しく持つ人権の基本をなしています。しかしそれは、他者を犠牲にして実現するものではなく、他者との調和のなかで実現する理念が必要であり、「共生」という思想理念の確立が今日ほど必要とされている時代はありません。異なる個性を持った少数者を自律的な人格として尊重しながら共生していくことは、さまざまな階層や集団の間においても共生を可能にする理念として高く評価すべきであり、それが異質排除や同質化傾向といった両極端を乗り越える考え方でもあります。一方では、そこには異質化および個性化を進める競争を奨励する競争原理も含まれているため、「競争的な共生」の状況だけが突出する危険性から、「共同」を否定する性格を有することになるという指摘がある点も事実です。したがって「共生」とは、互いの自立と多様な個性を尊重することであり、異質で多様な者同士がその豊かさを互いに享受して調和できる「共同関係」と考えるべきではないでしょうか。
「共生」は、個々の人の利害が完全には一致しないことを認め、互いにそれぞれの利益追求の自由を認めた上で成り立つ関係でもあります。したがって、社会のさまざまな不協和音やきしみを、社会的病理としてではなく、健康な社会の生理としてとらえ直す。利害や価値観を異にし、さまざまに違う生き方を実践する人々が、時として対立し、論争したり、気になる存在として誘惑しあうことによってこそ、人々の知性と感性が拡大深化され、人間関係もより多面的で豊かになり、人生が今まで以上に面白く躍動的になるのです。異質な者同士の不協和音をあえて響かせる「共生」においては、安定した閉鎖的な調和・協調に代わって、活発な競争が展開されます。そこでは人々のそれぞれの目標も異質なものが競合する以上、競争形態の中心は、あらかじめ設定した目標の達成度を競うものではなく、目標そのものを多様な仕方で捜し求めるということになるでしょう。つまり、目標の「達成」それ自体に重点を置くのではなく、目標達成への「過程」により高い価値を見出す方向性です。そのためには、多様な目標の追求を両立可能にするべく、目標追求の仕方を規制するとともに、相互の衝突の調整基準ともなるような一般的なルールを共有することが必要になってきます。このようなルールづくりのための指針となるものがまさに、人権、公正、民主的参加など、人類がこれまで試行錯誤を通じて歴史的に発展させてきた原理です。しかし、社会での「共生」を目指すということは、ある意味できわめて冒険的な企てです。この冒険に乗りだすには、自分に与えられた人生の範型に安住しない自律の強い気構えと、異質なものとも積極的に関係を取り結びうる寛容の度量という、人間的資質の陶冶が不可欠だからです。
福祉の面でも、「共生」を社会福祉にかかわる各分野、すなわち文化・政治・経済においてどう位置づけるかが大きな問題です。すなわち、共生の文化として福祉を考えることは、自立的な個性を尊重した関係づくりを意味し、単なる調和を越えた、積極的な関係を築いていくということです。「共生」とは基本的に「相利共生」を指し示します。ですから共生関係は予定調和的なものではなく、相互の自立(自律)と個性を重視します。その点を考慮すると、たとえば、障害者と健常者の「共生」理念には危険な落とし穴があります。それは、健常者と同等・互角に生活することが「障害を克服する」ことであり、「障害者の目標」であるという姿勢などです。ここで大切なことは、障害者と健常者が「同じように」生きるのではなく、障害の有無に関係なく、各人が「いかに生きるのか」ということであるべきです。しかし、「障害の克服」が目指している「目標」には、本来、すべての人間が問われるべき課題、そして人生における最も重大な課題であるはずの、「生き方の問題」がまったく含まれていません。「障害者と健常者が共に生きられる社会をめざす」ためには、ある意味で、健常者自身の抱えているさまざまな差別や抑圧、対立といった深刻な問題をさしあたり「不問に付す」必要があります。現実は、健常者同士、障害者同士も到底、「共に生きる」ことに成功しているとはいえません。
「共生」の世界には支配・被支配の関係はありません。それぞれが互いになんらかの形で作用しあい、また、物理的な環境とも相互作用しており、単なる部分の集合ではなく、どれかひとつが攪乱されれば、全体が影響を受けます。もちろんすべての要素が同等の力をもっているわけではありませんが、少なくとも支配・被支配の関係は存在しない。すなわち、「尊厳」という点においては平等といえます。それぞれが利害を越えて相互に関係しあっており、しかもそのひとつひとつが絶対の存在意義を持つ。「共生」とは、そのような関係をあらわす言葉と理解できます。したがって、「共生」を語る場合、すでに存在する関係についての価値観の転換をはかり、その新しい価値観を現実の生活に生かさなければなりません。それには豊かな心と勇気が不可欠となります。個々の関係性は、「それぞれが照らし合いながらそれぞれは輝いている」という「乱反射」しあっている関係性であり、すべては一体の関係にあると考えられる。そしてそこには、すべての物事はその光の乱反射(相互作用)により、常に変化するもの(諸行無常)であるがゆえに、個々人において、互いに自己変革しながら調和した関係を目指し努力をしつづけるという共に生きる姿勢に真の「共生」が見いだされます。
人間が自然とどう共生するか、あるいは人間が互いに殺戮し合わなくてすむ世界をどうつくりあげるか。残念ながら現代社会では、それと反することが現に起こっています。そうした今の状況から出発する場合、「現実に、生きた自分がいる。自分との関係としてとらえ返さなければ、全体性はとらえきれない」という自覚が必要です。それが「個別性」ということの真意です。「個別」は特殊なものですが、個別性を追究していくと、すべての存在物との関係を持つことを通して全体性に至りうる、という筋書きが見えてきます。そのような生き方を実践していくにあたって最も重要なことは、「自分個人の心の切り換え」です。すなわち、物事のありのままの姿は、個別性というよりも関連性や相互の依存性を根底としています。一切の生きとし生けるものは、互いに関係し頼り合いながら総体としての自然を成しているというのが、仏教の自然観の骨格です。しかしながら「関係」や「相互依存」を強調すると、ともすれば主体性が埋もれてしてしまうのではないかと思われがちですが、そうではなく、他に紛動されず自己に忠実に自然に生きよ、ということです。ただし、ここで「己」あるいは「自ら」というのは、利己主義に囚われた小さな自分、すなわち「小我」ではありません。時間的にも空間的にも無限に因果の綾なす「宇宙生命」とも呼び得るような天地の理に融合している大きな自分、すなわち「大我」を指しています。そうした「大我」こそ、私たち一人ひとりの自我の奥深くに潜む真の「自己」であるべきです。その自己とまわりの自然とを意識的につなげながら、地上のあらゆる「部分」や「要素」が平等に結びつく普遍的な世界、すなわち万物「共生」の世界を成していくことが、今後の私たちにとって個人的のみならず、地球規模での必要不可欠な取組みとなるのです。
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