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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

自由と束縛

 「自由」の二文字は昔も今もよく耳にしますが、「自由」とは何かということについて、一義的な解答を与えることはきわめて困難です。それが一体どのような状態を意味するのか、あるいは自分は自由であると言えるのかなど、考え出すと様々な疑問が湧いてきます。「自由か束縛のいずれを選ぶか」。仮にそう問われれば、普通ほとんど誰でも迷わず「自由」と答えるはずです。しかし、溢れるほどの情報と選択肢があり、何が正しく、何が間違っているのかよく分からない複雑な現代の世の中に生きるわたしたちは、時として、誰かに身を預けて指示どおりに生きている方が楽な場合もあります。自由な選択肢が増えるということは、それに応じて個々の選択力が問われる事態を意味します。この状況において、人によっては苦痛や煩わしさのあまり、かえって選ぶこと自体を放棄してしまうような状況すらあり得ます。そのような場合、むしろ「自由」の権利を捨てて、制約あるいは束縛を進んで受け入れる人が出てきても不思議ではないのです。

 1865年にアメリカ合衆国で奴隷制度が廃止された時、それまで奴隷の境遇に置かれていた黒人のすべてが晴れて自由の身になったことを大歓迎したわけではありませんでした。これからどう自活して生きていけばいいのかと、途方に暮れた人も数多くいたそうです。おそらく、明治維新という社会環境の激変に遭遇した幕藩武士、あるいはソビエト連邦の崩壊後における共産圏の一般市民も同様の心境だったのではないかと推察されます。また、自由の範囲は必要以上に広がりすぎると、皮肉なことに逆に自由の意義が損なわれ始めます。たしかに昨今は個性を発揮して自由に生きることが大いに奨励される時代です。とはいえ、たとえば職業を選ぶ際に、自分の天職を探し求め続けていくあまり、いつまで経っても就職の最終決断ができない若者が増えていることも事実です。「自由」に生きるということは、思いのほか難事であるのかもしれません。わたしたちは日頃、勝手気儘に振る舞いたいと思っていても、「御自由に」と言われると、さて何をしてよいのか戸惑ってしまうものです。

 人が最初に強く「自由」を意識し始めるのは、おおむね思春期の頃からでしょう。学校や試験勉強から解放されたい、同じ屋根の下に住む家族からの干渉を受けたくない、好きな時に好きなことをしたい等々。これらはいずれも、束縛からの自由を求める心性です。しかし、何の束縛もない状態というのは果たして現実にあり得るのか。わたしたちは様々な社会の規則や制約に縛られているだけでなく、肉体的および生理的な欲求も満たさなければ生きていくことができません。そして「自由」の「由」には、「原因」という意味もあります。つまり「自らを原因に当てはめる」と、解釈することができます。何ものにも束縛されない----それは裏を返せば、自分にすべての原因と責任が押し寄せることです。何を始めても良い、何を行っても良い、何を考えても良い。しかし、その責任の所在は自分にしかありません。「自由」には、常に責任が寄り添っています。一人で立って歩く以上、荷物を背負って歩くのも自分しかいないのです。

 誰でも知っているように、空中で物を離すとその物体は下へ落ちます。これは、その物体に重力が働いているからです。わたしたちは重力という物理的束縛を受けていることは間違いないのですが、毎日を暮らす上でなんら不都合を感じることはありません。人間を含め、あらゆる生き物は生まれたときからこの条件に慣れているのです。しかしたとえば、重力に逆らってロケットが大気圏から飛び出すには大変なエネルギーを要するため、一定の速度に達しなければ地上に落下してしまいます。つまり、わたしたちは普段まったく体に何の違和感なく「自由」に暮らしている状況が、実は信じがたいほどの拘束力を重力という形で受けている現実と対になっているのです。同様にこれは、わたしたちの生活を滞りなく維持してくれている「社会規範」という一種の見えざる「束縛」を無視し、法を犯してでも生きようとすれば、どのような結末を招くかということをいみじくも示唆しています。

 「自由」について論じることは、いわゆる「自由意志」の問題でもあります。自由意志とは、自らの責任において行動を決定する意志のことです。わたしたちは通常、自分の決断と行動が自らの自由意志に委ねられていることを信じて疑いません。その意味で、自由意志から派生する「自己決定」または「自己責任」という言葉は現代における「自由」の欠かせない概念となっています。とりわけ医療の現場で医師と患者の間で取り交わされる「インフォームド・コンセント(説明を受けた上での治療行為への同意)」などは、それを示す重要な一例でしょう。その背後には、十分な情報が与えられ、他者と平等の条件で自らが自由に決定した行動の結果は、自らが責任を負わねばならないという厳しい条件がわたしたちに課せられています。個人は自由な意思決定ができるという前提に立つからこそ、社会はその人の価値判断を重視します。そして、社会的に正しいとされる行為は肯定的に評価され、悪いとみなされる行為に対しては呵責なく糾弾されます。仮に人に自由意志が無く、すべてが決まったとおりに運命の操り人形として動いているだけだとしたら、その当人の行為を褒めることも非難することもできません。

 自由意志の有無は、社会的な善悪に関わるだけでなく、個人の人生観にも影響します。たとえば今の日本では、戦前に比べれば、家の事情や地域の柵に縛られることなく自由に職業や住環境を選択できます。ただし、自由選択が可能になったとはいえ、個人が自由に選択を為し得る範囲はそれぞれ違いがあり、自由に生きられる度合いには、明らかな個人差があります。むしろ、社会によって個人の自由が束縛されなくなったこの時代、自由を阻む最大の障害はその人自身の内情や事情であると言っても構いません。知性や判断力の限界、想像力の欠如、器量の狭さといったものが、直接にその人の自由の幅を規定していきます。人は皆、それぞれ生まれ持った資質において無理の無い範囲で自由を求めつつ、所与の束縛や役割を引き受けながら生きていかざるを得ないのです。

 日本国憲法第19条には、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と記されています。これは、心の中で何を思っても良いし、何を考えても構わない、ということです。言い換えれば、人の心の中に国家は入り込めないということを謳っており、まさに精神的自由の保障でもあります。さらに同法第22条では、「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」とあります。これは身体的自由を保障したものです。こうした心身の「自由」は、同法97条が説明しているように、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」です。わたしたちは、人々が自由を求めることを当然だと考え、自由の抑圧には怒りをおぼえるでしょう。他方、フランス人権宣言の第4条には、「自由は、他人を害さないすべてを為し得ることに存する」と規定されています。西欧の「自由」は、その概念のなかに「他人を害さない」ことが当然の前提として含まれています。日本においても、自由は追求されるべき価値であることは間違いありません。しかし、明治時代に福沢諭吉が「自由」という日本語に西欧的な解釈を取り入れる以前は、この言葉は「我儘勝手」、「したい放題」といった、あまり芳しくない意味の方に主眼があったとされています。ただ残念ながら現代においても、「自由」を「何でも自分の好きなようにできる権利」と勘違いをしている人が、束縛を嫌う若者だけでなく年配者の間にも多く見受けられるようです。

 また「自由」は、社会権力や伝統による強制や束縛から逃れている、ということばかりを意味しているわけではありません。自分の意志に基づく死の選択、子供を産むか産まないかの決定判断、あるいは芸術創造における精神の発露などの「自由」には、外からの強制が存在しないという側面よりも、自身で自分の在り方を選択して己の個性を発揮するという側面の方に力点が置かれています。現代はそうした心の自由をどう捉えるかが問われている時代です。外の束縛から解放が進んだ結果、何が新たに見えてきたかというと、それはわたしたち自身の心の呪縛の存在です。仏教はこの点で、自身の「自在」な境地の実現を絶えず目指してきました。すなわち、心の「自由」とはどういう状態なのか。それは「肘」に喩えることができます。肘の動きは一方向だけに限られ、反対方向に曲げようと思っても曲がりません。肉体の動きとして見れば不自由ですが、誰もそれを不自由とは感じてはいません。自分の腕は意のままに動きます。これに対して、操り人形の手足はどちらの方向にも動きます。しかし、あくまで人形師の糸で操られる、自分の意志では動くことのできない不自由な身です。人間は、幼児期・学童期・青年期と、このような操り人形のような時期を経て、独り立ちできる成人となっていくものですが、自身で自分を支えるためには、一方向にしか動かない肘や膝の存在を知るべきでしょう。それは不自由なのではなく、自由の証なのです。そして、自ら全部の糸を切るその時が来るまで、力を蓄えておかねばなりません。ところが、手足は操り人形のようでありながら、自分が上手に歩けないのは糸を操る者の手際が悪いからだと、責任転嫁をする人がいます。これは依存心の強い人にありがちで、自由を求めつつ不自由を自ら呼び込む愚痴の輩です。

 しかし何と言っても精神的な束縛を最も象徴するものは、「執着心」です。これには、心が因われている場合だけでなく、たとえば親や周囲の期待に背くわけにはいかないという心理状態なども含まれるでしょう。何かに強く執着していると、心の自由感が霧消して息苦しさをおぼえるものです。執着状態というのは、いわば鎖で全身を縛られていることに等しいのです。しかし、その鎖を縛ったのも自分であるということを忘れてはならないでしょう。手放したいにもかかわらず、手放せなくて苦しい----それが「執着」というものの実体なのかもしれません。自ら柱にしがみつきながら、柱から放してくれと叫んでいるのです。人が社会的あるいは経済的な自由を得ていても満たされた気持ちになり難いのは、自らの願望や感情という足枷によって欲望や怒り、自惚れや妬みなどに縛られているからです。願望や感情に振り回されることがなくならない限り、たとえ他の面では自由であっても日々の充足感を得ることは困難です。たとえば「愛」の感情、それ自体は一見すると「自由」を阻むものとは考えにくい。しかし問題は、愛が特定の人や物に集中的に向けられるようになった場合です。こうなると、愛は一転して「自由」への障害と変じます。わたしたちは海に入ると、たちまち自分の体全体に水圧を加えてきますが、さほどの重みは感じません。しかし、わずか一個の水瓶でさえ、それが頭の上に乗っていればその重量をずしりと感じる。つまり、普遍的な愛であれば束縛は感じないのですが、偏愛はその瞬間から双方にとって重荷となり、束縛と化す場合があることは、特に「愛憎」すなわち「可愛さ余って憎さ百倍」の古諺が示す通りです。

 束縛に関連して、仏教の「解脱」という概念は、文字通り「執着心を解き放って迷いを脱する」という意味です。自分の心や身体は我が身のものでありながら、自身で制御することはきわめて難しい。では、何がわたしたちを縛っているのか。人は富と物への飽くなき欲望を持っていますが、その空しさを他から指摘されても容易に止むことはありません。他人を自分の思うように支配したいとする自己中心的な要求、あるいは権力や名誉に対する固執も、いくら非難されようが捨てきれません。怒りや憎しみ、果ては怨み、さらには他人と自分とを比較して起こす劣等感や嫉妬心がいかに人間を苛むか、頭ではわかっていても排することは難しい。これが、「人を内側から束縛するもの」として理解される煩悩の乱舞する姿です。このような人生に空虚と無意味を感じた人が改めて求めるもの、それはこの煩悩から解放されて、自由の真の主体となることではないのでしょうか。「解脱」とは、この切望を端的に表した言葉であり、それを実現した暁には、他からの束縛はもはや無力と化す、と仏教では説いています。その意味で、閉塞感に覆われている人は、「内なる自由」を真剣に考えるべき状態にあると言えます。

 結局、「自由」とは他者によって与えられるものではなく、自身の中に存在するものなのです。そのことに気付かない人は、自分自身によって束縛されているため、周囲からの束縛がなくても不自由な感覚に苛立ちをおぼえるのでしょう。自由であるか否かは周りの環境のせいではなく、その中でどれだけの自主的な活動の場を見つけられるかという、本人の覚悟次第です。ちなみに、狭い舞台空間で展開される演劇の世界、人間の耳に判別できる範囲の音を組み合わせて現出する音楽の世界、限られた字数に韻を抱き合わせた詩歌の世界など、これらのどれもが厳しい制約の枠内で成り立っています。そこに用い得る材料、さらに表現者の技巧を掛け合わせると、さらに制限が加わります。きわめて窮屈な条件ばかりですが、それを受け入れた中で生まれるのが「芸術」ということになります。これは断じて「束縛」などというものではなく、「自由」の為せる業にほかなりません。制約によって命が吹き込まれ、そこに個性が生まれる。このように、制限の中にあるはずの「自由」は無限の広がりを内包することもできるのです。つまり、「自由」は自らの外を取り巻く境遇に抵抗する外向きの精神活動であると同時に、いかなる境遇にあろうと自らが在り続けるための心得でもあり、その方向はあくまで自身の内側を向いていなければなりません。何が自由かを見きわめるのは自分だけであり、そこから生まれる心の規律は外部から強制することはできないのです。

 冒頭に記したように、自由という言葉を定義するのは非常に難しいことです。自在に何でもできることだけが「自由」ではなく、責任をもって何かを為すことに障壁がないことも「自由」の基本的な要件です。前者は、まったく何をするのも自由。後者は、ある制限のもとで何かができる、という自由です。わたしたちは、必ず一定の束縛のもとで生きています。自由に物事を決められると思っても、周囲の意見や掟に流されて、自分の考えを貫けないこともあります。あるいは自分がこれまで経験してきたことが土台になる以上、どうしても自分の経験をもとに考えて行動します。あるいは今まで自分が受けてきた教育による影響だけでなく、文化・風習にも縛られたりするものです。わたしたちはこういう現実の中で生きているのです。

 世の人々の口癖はいつの時代も、「自由に生きたい」や「自由になりたい」です。しかし、そう言っている大半の人が、本当に不自由に生きている人よりは、数段自由に生きているはずでしょう。物質面、精神面においても、自分より窮屈で多くの制約の中で生きるしかない人は、世の中にはたくさんいます。自由でなければならないと考える人は、現在の何に不自由を感じているのかを必ずしも深く理解できているとはいえません。自由に生きるということは、詰まるところ、心の在り方次第でしかないのです。現実に物質的なことで縛られていても、心がどれだけ解放されているか、心に何もわだかまりを持たないかが、自由でいられるかどうかの分かれ道です。どれほどの大木でも、激烈な暴風をまともに受ければ折れてしまいます。しかし、強い嵐でも風に任せて揺れる柳は前後左右に翻弄されますが、折れることはほとんどありません。逆らわず、囚われず、そして「自由でありたい」ということにすら拘らない、これがまさに「解脱」の境地です。

 中国の古典に、「壺中日月長(こちゅうじつげつながし)」という寓話があります。壺中とは、ごく限られた小さな世界のことです。その壺の中に仙境があり、十日ほど過ごしたつもりが実は十数年も経っていたという内容です。これは文字通り読めば、壺の中で過ごす時間が長いということですが、この世の様々な制約で閉じ込められている、わたしたちの人生のことであるとも解釈できます。その上で、自由は壺の外にあるのではなく、実は壺の中にあるということを表現しています。つまり、自身内外の束縛に満ちた娑婆世界の姿は、心のあり方を変えてみれば、そこには悠々自適の日常性が展開すると示しているのです。人が何らかの鬱屈を抱えているとすれば、それは自由感の欠如によるものであることは疑いないところです。わたしたちは社会規範をはじめとして一定の枠のなかで生きていますが、これを束縛と捉えずに、主体的な判断を駆使して自由闊達に行動する。被害者意識に陥らずして、自分自身で今の状況を「選択している」と考える。制約のある方が実は自由なのだ、と発想を転換させる。結局、いかなる状況でも自由を見出して、それを楽しめる人が人生の充実を得られることにつながるのかもしれません。

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