本来は気象学の分野で使われ始め、世間にも流布するようになった用語のひとつに「バタフライ効果」という言葉があります。これは、蝶(英語で「butterfly バタフライ」)が羽ばたく程度のきわめて微細な空気の撹乱ですら、遠く離れた場所の気象に影響を与える(たとえば竜巻の発生)だろうかという、普通の感覚では考えられない荒唐無稽な問い掛けが由来とされています。しかし厳密に考えれば、たとえ蝶が羽ばたいた場合においても、ごくわずかに蝶の周りの空気が動くはずです。その動作がまったく他に影響を与えず単独で完結することはなく、いかにわずかであっても連動してさらに周りの空気が影響を受けます。そういったことを繰り返して他のあらゆる原因と相まって、たとえ顕微鏡レベルにせよ、なんらかの動きを誘発することは想像に難くありません。そうした着眼から、一般的に「バタフライ効果」とは、ある状態に変化を与えるとその変化が無かった場合と比べて、その後の状態が非常に異なってしまう現象を指します。「もしクレオパトラの鼻が低かったら、おそらく大地の全表面は変わっていたであろう」という、17世紀フランスの哲学者パスカルの有名な箴言も、同じような発想に基づいていると言えるでしょう。わたしたちの平凡な日常は小さな出来事で溢れています。刺激に満ちた劇的な事を待ち望みつつ、我が人生の「昨日と変わらぬ今日」の連続に辟易している人も多いはずです。しかしながら、つい見過ごしてしまいがちな「小事」が後々の「大事」への引き金になっている場合もあることに着目すると、日常は決していつもと同じ退屈な「繰り返し」ではないことに気付かされるのです。
実際、世の中の有り様は「原因と結果」という直線的な関係性だけをもって一刀両断に説明できるほど単純なものではありません。事物の展開を一対一の関係のみでとらえてしまうと、真因は何かという点や隠れた背景の要素を見失ってしまうおそれがあります。一つの結果にはたくさんの「因」があり、これを特定することは困難だからです。「わたし」という自分の存在ですら、「わたし以外」のすべてとの関わりを念頭に置いた上で初めて定義されます。「今ここにわたしが存在する」ことの「原因」を探っていくと、わたしが「わたしの世界」として認識するものの総体、そして過去から現在に至る全時間で起こった現象、それらすべてが複雑に絡みあって、「わたしは今ここにいる」と言えるからです。これは相関の本質を示しているものであり、すなわち仏教における「縁起」の理法にほかなりません。縁起の核心は、どのような事柄であっても、単一の理由や原因から成り立っているものはない、という点にあります。必ず微細な原因が無数に関係し合っているのです。人が何かの行動を起こす場合でも、当人自身すら認識していないような見えざる「縁」によって突き動かされています。とりわけ現代の高度情報化社会においては、物理的距離を超えて瞬時に多数の人々と意思疎通ができる環境の充実と相まって、そうした「縁」の総量が爆発的に増大しています。これだけの「縁」が生まれる社会では、今まで予想もしないような「果」—-バタフライ効果——が引き出されることが当然にしてあり得ます。この効果を個人の行動に援用すると、「自分のささやかな行為が、いずれどこかで大きな影響を与えるかもしれない」という展望にも至り、自身に対して無力さを感じているときには幾許かの希望を与えてくれるかもしれません。他方、自分の何気ない一言や振る舞いが自身のあずかり知らぬ場で人や周囲に甚大な影響を与える可能性についても十分に配慮する必要があることは言うまでもないでしょう。
初期値のわずかな違いが将来の状態に無視できないほどの大きな差を生む現象は人生の様々な局面で随所に見られ、些細な出来事が因果関係の錯綜した連鎖の果てに、個人の人生の行き先さえ左右する遠因となることがあります。それは、一人ひとりの存在が分かち難く交差しながら世界が成り立っているということの証でもあります。仏教においても、何が何に影響を及ぼすか分からない故に、わたしたちは常に他の存在と触発し合いながら存在していると説いています。この理を了察すれば、たとえ一歩の挑戦であっても、それはひとりの一歩ではなく万人に通じる一歩になり得るであろうということが理解できます。さらには、相互に影響を与え合う要素が数多くあると、単にその重ね合わせ以上の相乗効果を生じて思いもかけぬ現象も見られます。暮れなずむ空を鳥の群が右に左に一糸乱れぬ編隊飛行をしている様を見かけることがありますが、これはある特定の隊長的な役割の鳥が命令を出して統率しているのではなく、近くの鳥たちの数の多い方に行こうとする、近くにいる鳥たちと飛ぶ速さと方向を合わせようとする、あるいは他の鳥や障害物に衝突しそうになったら離れようとする、などの無数の微調整行動が最終的に整然とした群れを形成している自然現象の見事な例です。わたしたち人間もそれぞれが群衆の一要素として、これに似通った行動をするような事例が数多く観察されています。単純な規則の下でも複数の要素の集団が自ら複雑な組織を形成していく過程を考えると、やがては生物の発生の仕組みにまでも考察と視野が広がっていくことでしょう。事程左様にこの世は森羅万象が密接に関係し合って存在し、かつ相互の影響関係を見通すことが不可能な、いわゆる「複雑系」を展開しています。むろん人間界もその対象から免れません—-小は一従業員による出来心からの不祥事が企業の倒産を引き起こすような場合から、大は一国の王族の暗殺が導火線となり、やがて人類史上初の世界大戦にまで発展していった事例に至るまで—-。自分自身の過去を振り返ってみても、ふとした行動が後々の人生の方向を決定づける引き金になったという経験は誰にも思い当たる節があるはずです。
波及的な効果の例は他にも数多く見出すことができますが、「食物連鎖」という概念もそのひとつです。植物によって二酸化炭素や窒素などの無機物から合成された有機物は食糧として動物に摂り込まれ、その死骸が微生物により無機物に分解される。そしてこの無機物が再び栄養分として植物に吸収され、そこからまた生食の連鎖へと戻り、この営みが絶え間なく繰り返されていきます。当然わたしたち人間も、この地球上で食物連鎖の中に組み込まれ、その中で生かされています。生き物はすべて食物連鎖のなかで固有独自の位置を占め、替えがたい存在価値を有しているのです。こうした「繋がり」の形は「食物」の連鎖だけではなく、自然風土の面でも随所に見られます。森の木々は繁った葉で日光を遮って地面を極端な乾燥や温度上昇から守り、生き物が生存しやすい安定した環境を生み出しています。虫に花粉や蜜を与える代わりに、花粉を運ばせる植物もいます。樹木の多くは、その根が
土中の菌類とつながっており、土の中の養分を吸収する一方、光合成でつくった養分を菌類に提供しているのです。このように、自然界はあらゆる要素が各々の立場役割を果たしながら緊密に連係しており、そのなかでどれ一つとして不要なものはないと同時に、どれ一つ欠けても全体に対して影響が生じることになります。わたしたちが食物連鎖から学ぶべきことは、自然環境についてのみならず、社会生活においても、「自分一人くらいなら問題ないだろう」という自分中心的な考えは誤りであるという点です。さらに付け加えるならば、現代人は食物連鎖の頂点に君臨していますが、人間に至る食物連鎖の長さとその広がりに思いを致すとき、魚類の乱獲や森林の伐採などを含め、地球環境の急速な劣化に関わる諸問題がいっそう身近に感じられるかもしれません。これは、人々の「自分一人くらい」という利己的な姿勢が社会に蔓延するようになると、いずれ深刻な厄災となってわたしたち自身に跳ね返ってくると教えてくれているのです。逆に言えば、「自分一人でもできることを行う」、「自分一人から始める」という各人の意思が集約されれば、社会の趨勢に多大な影響を及ぼすこともあります。
仏教経典「華厳経」には、「因陀羅網」なる網が登場します。これは仏法を守護する帝釈天の住む宮殿に張り巡らされた宝網のことですが、その網の結び目すべてに宝珠が付けられています。宝珠の表面は鏡のように反射し、それらが互いに映じ、映じた玉がまた映じて無限に反映し合っている。この世に存在する個々のすべては、この因陀羅網の個々の宝珠のようなものであり、因縁の網で結合し、繋がり合っています。万物が皆お互いに支え合って存在し、孤立するものはひとつとしてありません。「わたし」という一人の人間も、多くの人々に支えられ、また過去からの因縁が結合し、「今」という現在が存在して照らされています。そして現代の「因陀羅網」とも言えるインターネット上では個々の無数の意見が交わされて、それらが幾重にも重なり反映し合い、新たな思想を誘発し、社会全体のみならず自分自身も変わっていくのです。一つの網目を揺らせば、その揺れが網を伝って全体に大きく広がっていくように、どれほど小さな事であろうと、その影響は必ずどこかに現れます。時には思いがけず大きな反響が起きることもあるでしょう。わたしたちは、この網のように、遠く無関係にあると思うようなことでも見えない縁によって繋がり合っています。思い起こせば、1989年11月、若者たちがベルリンの壁をハンマーで打ち壊し始めた瞬間からソビエト連邦が連鎖反応的に崩壊していき、最終的には東西ドイツの統一にまで達した様などはまさに「バタフライ効果」そのものであり、古代ローマ帝国の瓦解に至る過程にも匹敵する一大異変でした。わたしたちの世界は要素間の相互作用による「網」を形成し、常に秩序と混沌を繰り返しながら生成変化していくのです。
それぞれが当初は単なる「点」でしかない個々の出来事は、それらの点と点を縦横に連結していくことで徐々に複雑化し、やがて何らかの意味をもつようになります。しかし自分が与えるであろう影響の行方についていくら想像を逞しくしても、その結果が何処に現れていくのかは決して見通せないところに人生の妙があります。したがって、自分の行動が周囲に与える大きさから「生きる意味」を考えつつ、「自分の存在意義は何か」と悩む前に、「自分の立場で何ができるのか」を問うべきなのかもしれません。現代のような目標と方向性が不分明な時代においては、従来の組織の総合力や行政の指導力ではない「個人の共鳴力」がますます重要な意味をもつようになるでしょう。たとえ小さな事でも世の中に大きな価値を与え得ることに気づくと、自分自身でも日々をさらに意識的に行動してみようと思えるようになるのです。しかし「行動」というものは頭では理解していても、なかなか実行に移すことができません。それは、行動には「初動」に最もエネルギーを要するという特徴があるからです。すべての行動は「一歩目を踏み出す時」から始まります。わずかな行動から始めることが大きな結果につながる。いかに小さな事と思える行動でも、何もしないより、確実に現実の自分、さらには周囲に何らかの影響を及ぼします。これは行動だけでなく、思考も同様です。「あの一言がわたしの人生を変えてくれた」。言った本人は何気なく口に出したかもしれませんが、言葉を受け取った側はその一言で後々の人生が変わってしまうほどの影響を受けるということがあります。
「我が人生を一変させる動因はどこにあるのか」。これは、単調な日々に飽きた人の誰もが一度は抱く問いでしょう。たしかに、予定調和的な人生はそれなりに心地良いものですが、そこに安住することは刺激と変化に自ら背を向けることでもあります。誰しも、気になることや不安など自分にとって歓迎したくない部分があるからこそ、敢えて日常からの脱却を求めたくなるのです。しかし、きわめて当たり前のことですが、座視しているだけでは何も変化は起こりません。自ら行動を起こすことにより、好循環を惹起する可能性がはじめて生まれます。その時、些細な出来事や習慣が自身の思わぬ方向に人生を変えてくれる時があります。むろん劇的な出来事は間違いなく人生を変える契機になるでしょうが、ほとんどの場合そのような出来事は起こらないものです。したがって、蝶の羽ばたきの如き極微の変化がやがてもたらすであろう大きな転機を信じ、人生は毎日の思考と行動の地道な積み重ねが土台になっているという単純な真理を改めて認識し、社会や世界に対してとは言わずとも、せめて自身に対して一陣の風を起こし、常に自己改革を続けていきたいものです。その際に留意すべき有益な心構えとして、修道女マザー・テレサ(1910-1997)は生前、こんな警句を残しています。「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから」。
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