「欲望」とは一般に「何かに不足を感じて、それを満たそうと激しく望むこと」ですが、その根本は仏教で説く「煩悩」に行き着きます。この「煩悩」とは、私たちの身心を煩わし悩ませ、苦しみを生みだす一切の妄念のことです。煩悩が人に付きまとって離れない状態を、犬が足に纏わりつく様に喩えて「煩悩の犬は追えども去らず」との言葉があります。また仏教の教えによると、私たちの煩悩は八万四千種類もあると言われます(ちなみに、除夜の鐘で有名な百八煩悩は、その数を大幅に絞り込んだものです)。
個人の思想信条を区分けする仕方にはいろいろありますが、理想主義と現実主義に大別することもそのひとつです。否むしろ、私たち自身の中にこの理想主義と現実主義が同居していて、時と場合に応じてどちらかの性質が顔を出す、といった方がよいかもしれません。また人々のあいだの言い争いは、たいていその多くがこの理想と現実の食い違いをめぐるものであり、現実主義者は今日を、理想主義者は明日を好んで語ります。つまり議論の土俵が違うのです。この現実世界をどう見るか、それが現実理解です。逆に、自身の人生観を中心として現実が未来に向けて反転されれば、それが理想となります。しかし的確な現実理解を抜きにして、未来のことはおろか、当面する諸問題に立向うことはできません。また現実理解の程度に応じて、自分自身にとってのこの世界のありようが定まってきます。そしてその第一歩となる心構えが「欲少なくして足るを知る」、いわゆる「小欲知足」です。ある意味で、これは徹底した現実主義です。しかし小欲知足は、「禁欲」とも微妙に異なります。欲の多寡を考慮した上で、欲求心は非常に旺盛であるが、ある程度のところで欲の充足の追求は控えておくということです。充足できない欲を抱えることで、苦悩と喘ぎが生じるからです。
そもそも欲望とは何か。本来は私たちにとって、最も大切なものです。それ無しには、一日も生きてはいけません。考えてみれば、人類の歴史は欲望の追求に明け暮れしてきました。たしかに釈尊は「人生は苦なり」と言いましたが、凡人の私たちは「苦を味わう人生は歩みたくない」と思います。むしろ、「思いのままに願いがかなうことが理想の境地」と考え、人類はまさにその思いをかなえるために、粒粒辛苦の努力を傾けてきました。しかし、技術の進歩と経済の発展は私たちの物質的な夢を次々と実現させましたが、それに伴って私たちの欲望をも限りなく増大させました。夢の実現と欲望の増大は、「昔は欲しくなかったものが今は欲しくなった」ということであり、ある点で苦悩が増えたということです。そして目の前を欲しい物が次から次と通り過ぎ、かえって心は苦しくなります。「なぜ苦しいのか」と人に問われれば、「手に入らないという現実が私を苦しめている」としか言いようがありません。しかし仏教はこの心理を否定し、「自分が欲しがるからだ」という判断を下します。欲しいものが増えたということは、すなわち「手に入らないものが増えた」ということであり、逆に欲望が増す結果を招きます。ですから便利な世の中になって、私たちが満足するようになったかというと、実は従前よりも不満足な思いにとらわれることも多くなってきたという側面も否定できません。
苦は欲望が満たされない時に生じるのであるから、世の人々は、苦を完全に滅却するために、欲望を完全に満たそうとする。しかし欲望には限度がない以上、欲望を完全に満たすことは、はじめから不可能です。一方、苦の原因も無限大です。したがって、苦から完全に自由になる(解脱する)には、苦の原因である欲望(煩悩)そのものを滅却しなければならないことは、誰にも自明です。その際、仏教が理想とする「自由」は、私たちが通常望んでいる自由とは次元の違う自由です。私たちは、例えば「好きな食べ物を好きなだけ自由に食べたい」という欲望を持ちますが、このような自由を望むことは、食欲という煩悩の奴隷になることを意味しています。つまり、私たちが求める自由とは、「欲望のための」自由であって、「欲望からの」自由ではない。欲望のための自由は欲望からの「不自由」であるから、この二つの自由は対立するのです。では、私たちは、欲望から完全に自由になって絶対的な心の平安を得ることが果たして可能なのか。答えは、否です。生きている限り、欲望から自由になることはできません。
この果てしない欲望をどうやって自身でうまく決着をつけてゆくか。現代文明は大量の生産と消費を中心に据えた文明ですが、その考え方の根底に自然征服は善であるという傲慢な思いがあります。そしてこのような考え方が、人類の欲望の全面解放を善とみる思想を生み出したことは言うまでもありません(ちなみに、地球温暖化現象一つを考えるだけでも、もはや消費文化に欲望の充足を見出すという考え方は成り立たないとはっきり知ることができます)。しかしながら釈尊は、欲望を満たすのがまったくいけないとは言っていません。欲望というものは、絶えず危険性を伴うものであることを知り、その制御の術を学ぶべしと諭しているのです。『仏遺教経』という経典には、「知足の者は、賎しといえども富めり。不知足の者は、富めりといえども賎し」と書かれています。「欲望には限りがない」と先ほど言いましたが、実はそう単純にとらえきれない側面があります。多くの人は甘い物が好きですが、だからといってそれをいつまでも食べ続けることはできません。運動も同様です。いくら好きでも、一日中運動に興ずることはできません。甘い物にしても、運動にしても、やがては飽き、体が悲鳴を上げて苦痛に変わってしまいます。たしかに私たちは貪欲ですが、実はあまりにも簡単に満足してしまう存在であるように思われます。ある意味で、官能の喜びは、欲望が満たされるにつれて快楽そのものが逓減して、ついには苦痛にまで変質してしまうという逆説的な構造を持っています。特に、物質的な欲望の満足は、まだそれが完全に成就されていない間に成立し、達成されるや消滅するという皮肉な展開を示します。それ故、例えば「食事」という食欲の満足をはかる日常行為ひとつとっても、私たちはいろいろと手間隙をかけて調理し、食卓を飾り、煩雑な作法や会話、さらにはその時流れる音楽にまで気を配ったりと、ありとあらゆる演劇的儀式の創造に心を砕くのです----食べる行為そのものに要するのは実にわずかな時間だからです(動物の食事風景を見ればよくわかります)。胃袋の容量には限りがあるため、食欲を満たしたあとにはどのような美味の料理を前にしても心が動きません。このように考えると、食事行為をめぐるさまざまな贅沢が存在するのは、私たちが物質の乏しさを知っているからではなくて、食欲そのものの「乏しさ」(虚しさ)を本能的に知っているからだということになります。世俗的な快楽はどれをとっても決して純粋一途な快楽ではありえず、必ず苦痛を裡に含んで成立しているのです。
しかし、「生きている間に欲望や快楽を思う存分に満たし、好き放題に人生を楽しめばそれでいいではないか。自分の欲望や快楽を最大限に追求すれば良いのであって、それが生命の存在意義なのだ」と考える人も世の中には数多くいると思われます。こうした考え方は人類のあいだに昔から根強くあります。そしてこの考え方にも、それなりの根拠があるのです。生物はともかくも自分の肉体を成長させ、生命を維持しなければならないからです。また、肉体が十分に成熟したら、子孫を残さねばならないからです。「食欲」は体を成長させたり生命を維持するために必要です。「性欲」は種の保存のために必要です。したがって食欲や性欲を満たして肉体的な快楽を得ることは、生命の目的に適っているのです。また、財力や地位などに対する「欲望」は、生きていくための安全を確保し、生活の条件や環境を快適にするためにあります。したがって、ある程度の欲望や快楽の追求は、「生命の肯定」にとって大切な要素となります。自己の生命や種族を維持するために必要な、肉体的欲求の充足。健康で安全な生活を維持するのに必要な財力や地位。これらのものは、生命を肯定して活発に生きていくための必要な条件なのです。
しかし限度を超えて、必要以上に欲望や快楽を追求すれば、逆に「生命の否定」を招く原因になってしまいます。つまり、喜びや楽しみを感じることができなくなり、逆に「虚しい苦しみ」が増大してくるからです。とりわけ食欲や性欲などの肉体的な快楽には「生物としての限界」があります。そして、その限界を超えて食欲や性欲を求めても快楽は得られず、かえって苦痛以外の何ものでもなくなってしまいます。また、財力や地位などに対する欲望も、それらを獲得すればするほど、さらに多額の金や高い地位が欲しくなり、飽くなき欲望の苦しみが果てしなく増大していくのです。同時に、財力や地位を得るほど、今度はそれを失う不安や恐れが大きくなっていきます。この苦しみも実に壮絶なもので、財力や地位を失って自殺する人々が後を絶たない例は、古今東西において枚挙に暇がありません。そしてまた、自分だけの欲望や快楽をあまりにも過度に求めると、必ず他の人や生命にしわ寄せがいきます。自分の欲望や快楽を満足させるためには、多かれ少なかれ、他の生命からの搾取、競合、闘争などが起こります。これは、生物同士の食物連鎖や生存競争から始まって、人間同士の揉め事や国家間の争いまで、ありとあらゆる生命活動の中に存在しています。しかし同時に、これは生きて行くためにはどうしても必要なことです。生命を維持するためには最小限の競合や闘争はどうしても必要なのです。不条理なことですが、生物間のすべての競合や闘争を否定してしまえば、生命は存在できません。例えば「食物連鎖」を否定すれば、生命は存在できなくなってしまうのです。「生きる」ということには、他の生命に苦しみを与えてしまう部分が必ず存在するのです。そのため、生命全体の維持に必要な最小限度の競合や闘争は、嫌々ながらも生物同士の間でお互いに認め合っているのです。地球の生命全体を維持するためには、それがどうしても止むを得ないからです。このような状況で生命全体の存続を保っているが故に、一個の生物体(例えば一人の自分)があまりにも貪欲に欲望や快楽を追求すると、必ず周囲から恨みや反感を買うのです。そして周囲からの反発が大きくなっていきます。
結局、他の生命を苦しめ、自分だけが利益を得るような過度な欲望や快楽の追求からは、幸福(生命の肯定)は絶対に得られない仕組みとなっているのです。生命現象にはそのような機構が働いていると悟るべきでしょう。一個の生物体(あるいは、ある特定の生物集団)が、あまりにも利己的な行動をとり、生命全体の存続にとって有害になると、自動的に是正作用が働くのです。限度を超えて生命全体に悪影響を及ぼすようになると、そのような生物個体の存在は許されなくなっていきます。例えば私たち以外の生物でも、ある生物種が大量発生して生態系を破壊しそうになれば、生態系からのいろいろな是正作用が働いて、その生物は大量に死んでしまいます。また、このようなシステムがあるからこそ、地球の生命は数十億年もの長いあいだにわたって存在できたと言えるのです。自分勝手な欲望や快楽の追求は、ゆがんだ自己愛といえるものです。最終的には自分の生命価値を貶め、生きる意義を喪失させ、自己否定を招く結果となります。以上のことから、限度を超えた欲望や快楽の追求は、生命の存在意義になり得ません。なぜならそれは、苦しみや憎しみを増大させ、生命を否定する行為になってしまうからです。これから社会の繁栄曲線が右肩上がりになることは、現実として難しいでしょう。そのような中で真に大事なのは、いかに厳しい状況でも今を受け入れられることです。つまり人生を充実させたいなら、自分を自分の人生の主人公にしなければならない。それには、足りない、欲しいと思い込んでいるものを一度すべて捨てて、自己の価値観を再構築する必要があります。「分を知る」あるいは「足るを知る」という言葉は、現代の私たちにとっても耳に心地よく、頭では容易に理解納得できますが、それを本心から得心して行動している人は極めて少ないのが現実です。
その一方で、兼好法師は『徒然草』の中で、ある登場人物に「大欲は小欲に似たり」という言葉を述べさせています。大切なのは、利己的な小欲を脱して、もっと高邁崇高な大欲に生きろと言うことです。「欲」に手足が付いた生き物が、私たち人間です。ですから、「欲を断つ」と言うことは人間であることをやめて、木石の類になることに等しい響きを持ちます。煩悩を断じ、小欲に甘んじる清貧も尊いものですが、そうした孤高な生き方は、しばしば社会性に乏しい独善に陥らないとも限りません。そもそも煩悩は本来、人間を生かす根本的な原動力であり、決して否定すべきものではありません。人間が築き上げてきた高度な文明も、その源を辿れば、一人一人の人間の煩悩の総力によって産み出されたものなのです。煩悩をこうして前向きにとらえる考え方もあり、それを「煩悩即菩提」、つまり煩悩も仏からの授かりものであり、悟りと表裏一体のものであると見ます。たしかに煩悩ゆえに私たちは人を愛し、また人を憎みます。それは生きる力であると同時に、私たちを破壊する力でもあり、人生の災いと苦しみの源泉でもあります。それは燃えさかる炎にも譬えられます。扱い方を誤るとそれは人間を焼き尽くし、世界を滅ぼすことにもなりかねません。それゆえに古来の哲学や宗教は、これを理性と知恵の力で煩悩を制御することの重要性を訴えてきました。
スポーツの世界には、自己や前人未踏の記録に挑戦して失敗した時に潔く負けを認める一流選手が数多くいます。彼らは己の限界に挑み、練習を積んできた者だからこそ、負けたときには自ら勝者に握手を求め、その姿には言い訳がありません。それは、「前向きな諦め」です。現代の私たちに必要とされる意識は「ものごとには限界がある」ということではないのでしょうか。あるいは、自分の身の程を知る。つまり、己の分を知ることです。他方で、子供は「諦める」ことができません。欲しい玩具や菓子の前でひたすら泣き喚きます。彼らの中にあるのは、親になんとしても自分の欲求をかなえさせたい一心だけです。それはまさに、わがままな幼児性のあらわれです。これを心理学的には「万能感」と呼びます。自分の望みはどんなことでも実現するはず、という未熟な自我です。現代はそうした自我に支えられた徹底的な欲望追求社会であるため、この欲望の社会的制御(欲望の質の転換、あるいは欲望の量の縮小)が大きな問題になりつつあります。しかし、欲望の人為的な制御は人類の存続にかかわる危険を孕んでいるため、事態は厄介です(人口少子化など)。いずれにせよ21世紀は、欲望をいかに追求するかではなく、いかに制御するかを模索すべき時代と言えそうです。
今の私たちは、さまざまな事柄について、「適量」とはどのくらいなのかを考えるための概念を必要としています。それが「足るを知る」ということであり、日常の食事量から二酸化炭素の排出量に至るまで、すべてのものに当てはめることができます。ちなみに二酸化炭素の場合であるならば、それは、言うまでもなく、地球の生態系が十分吸収できる量であって、本来それ以上は許されません。現代の人類は、環境破壊による地球規模での生態系の変化、新種ウイルスによる伝染病などの生物学的災害、核や生物兵器を保有する小国によって引き起こされる小規模な核戦争の危機などをはじめ、これまで想像もしていなかった数々の危険と向かい合っています。そうした中で、あまり危惧されていない、しかし最も恐ろしい人類滅亡の起爆剤となると考えられているのが、人口増加や気象変動による世界的な食糧危機でしょう。今日でも、地球上には飢餓で苦しんでいる人々が大勢います。先進国の文明が発展途上国からの搾取の上に成り立っていることは、これまでも多くの識者によって指摘されてきたところです。これこそ「欲望」による弊害のきわめて象徴的な例です。世界各地で飢饉に苦しむ人々に対して、今日人類が生産しているすべての食糧を均等に配分したとしても、到底足りないであろうとまで言われています。さらにこれら途上国がやがて先進国の仲間入りをした際に、当然、現在の先進国の確保量が相当に減少することは一目瞭然です。これまで世界の動向を左右していたのは石油など化石燃料でしたが、今後は食糧を制する国が世界を支配する時代になるかもしれません。近年では、食糧生産地の拡大をめざして砂漠の肥沃化計画などが研究されていますが、砂漠が肥沃になっても、結局、こうした国家間での搾取の構造が変わらない限り、飢餓の状況は解消しないでしょう。
人間という生き物だけが、常に必要最低限以上の物を欲しがります。このような「もっと欲しい」という欲望は、私たちの体の奥深くに刻み込まれているかのようです。その淵源を辿ると、人類は何千年もの間、過酷な自然環境と社会環境の中で生き抜いてきたという歴史的な背景につながります。必要以上の量を確保することは、いつの時代でも、不透明な将来の不測の事態に備えるための第一の防衛策でした。そのため現代においても、「適量」や「節度ある生活」といった考え方は、今後も一部の人たちからは理解されながらも、大多数の人々の認識を変えるだけの力を十二分に備えているとは決して言えないようです。先進国の生活が「知足」の範囲をはるかに超えているのは、否定しがたい事実です。しかし、冷静に考えれば、あり余るほどの物が必要な人はこの世に一人もいない。また本心から必要以上に多くの物を望んでいる人も少ないはずです。ただ、理由なき飢餓感、あるいは嫉妬に満ちた他との比較(個人間でも、国家間でも)から、駆り立てられるように欲望追求の蟻地獄に入り込んでいるに過ぎないのです。今や、「持続可能」な地球環境を維持しなければ人間もやがて自らの欲望によって身を滅ぼす運命にあるという大局的な自覚を一人一人が持って、あり余るほどの物を欲しがらせるような誘惑要因を社会全体で極力減らしつつ、各人も「足るを知る」ことの重要性を認識しながら「事足りた」日常を送れるよう工夫努力すべき時期に来ていると思われます。
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