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執筆者の写真明輪寺 / 空性寺

過保護と自己責任

 自由な社会とはいうまでもなく、あらゆる経済活動に対する国からの干渉や規制を排し、政権の交代が可能な議会制度を標榜し、個人の思想、言論、信教の自由を保証するものです。しかし、わたしたちがこうした「自由」を享受する代償として、個人はもとより、地域社会あるいは国際社会においても、自身の行動やその結果に対する「自己責任」の原則が伴います。その意味はむろん、自由な選択による行動の結果は自身で引き受けなければいけないというものです。したがって、自己責任の範囲が狭まるということは、多様で自由な選択が許されなくなるということであり、逆にその範囲が拡大するということは、個人や社会の主体性も広がるということが言えます。こうした点を勘案すると、現代の日本は世界でも稀なほど安全かつ自由で暮らしやすい環境を実現していますが、自己責任の徹底化とは反対方向の、過保護な面が随所に見受けられるようです。

 一般に社会全体が過保護な方向に傾きはじめると、人々は危険を避けるようなことばかりに目が行き、何が本当に危険で、何がそうではないのか分からなくなってきます。真の安全自由を確保するためには、まず危険の対象と範囲・程度を知ることが最低条件となります。たとえば、物づくりにおいてあらゆる危険を想定して設計することは事実上不可能であり、どのような製品にもなんらかの危険が伏在しています。尖った鉛筆の先端部分が危険であるとみなされて、丸く削られれば、鉛筆としての機能は半減するでしょう。また、ナイフや包丁は凶器になり得るということで、その所持・使用を全面禁止にしてしまうとしたらどうなるのか。したがって、わたしたちは危険を十分に承知しつつ、自ら気をつけて行動するという自己責任の精神が欠かせないことは改めて論ずるまでもありません。しかし現実は、危険から人々は目を背け、注意を怠り、挙げ句には自分以外の誰かに責任転嫁しようとしているのが今の世の中です。その結果、社会がますます便利になるにつれ、わたしたちの危険察知能力は日々退化しているようです。これは、人生上の障害を乗り越える力が失われ、失敗を極度に恐れる人間になることにもつながります。最近、生きがいを見失っている人が多いのも、そういう過保護な社会が影響している可能性があります。

 よく言われることですが、訪日した外国人は一様に、電車やバスに乗った際の案内アナウンスの多さに驚くそうです。また、さまざまな製品の安全に関する注意書きには、過剰なまでの指示が列挙されています。たしかに、技術の急激な発達により、製品の機能や使い方が非常に複雑なものが増えていることは事実です。老齢世代にとっては特に使用のハードルが高く、場合によっては事故を招いたり、生命の危険すら生じかねないことも否定できません。その一方で、皮肉な現象ですが、過保護社会に慣れきっているわたしたちは、克明仔細に記された製品の注意書きなどを真剣に読もうともせず、電車の案内アナウンスについても神経を集中させることはほとんどありません。それでいながら、いったん事故が起きれば、その商品や運行主体に対して仮借なく責任を追及します。「過保護」がかえって「自己責任」の所在を覆い隠し、人々のあいだで互いに責任の擦り合いを生む結果となっているのです。

 こうした過保護社会が作り出す負の影響が今の日本には蔓延しています。例をいくつかあげれば、衛生面での行き過ぎた「除菌」という名の過保護による免疫力の低下。子供への過保護教育による、自立心の欠落、引きこもりや人間性の陰湿化。栄養の偏りや運動不足など、自分に対する過保護で自己管理ができない生活習慣病患者の増大によって膨らむ医療費、等々。さらには、長い間の官僚主導体制の中で、いつのまにか「国民の安全と自由を守るため」の膨大な数の法律や規則に縛り付けられた結果、国民一人ひとりが自分で判断して責任を持つことに対する自覚が薄れてしまいました。自由を裏打ちするのは自己責任であり、責任を伴わない自由は真の自由ではなく、いわば後見人の保護下にある子供のようなものです。わたしたちは、職業選択の自由の裏に潜む失業の危険、欲しいだけ買い物できる自由に伴う破産のリスク、言論の自由をはき違えて単なる相手への中傷誹謗に堕する罠など、あらゆる社会生活の側面において、自由な行動の反作用として有形無形の責任を負っていることを忘れてはならないのです。

 現代日本は、長きにわたる経済的低迷やさまざまな格差の増大を主な要因として、ストレスの多い条件下にあることは疑い得ませんが、過保護な社会状況により、日本人自身がストレスに極端に弱くなっている事実も見逃せません。つまり、過酷な社会・風土環境の人々にとっては特段、ストレスとして感じられない事柄が、快適な環境に慣れた日本人には堪え難いストレスとして受け止めているようです。少々の不便に我慢できず、すぐに物事を投げ出し、些細なことに腹を立てたり逆上するなど、日本人がストレスに過敏になった兆候は随所に見られます。もともと「ストレス」とは物理学の用語で、物体に圧力を加えたときに生じる(歪みによって生じる)応力(元に戻そうとする力)のことです。つまりストレスは、外から加わる力に対抗する力(反発力)であるといってもよいでしょう。物体を人間の生体に置き換えると、ストレスは、外からの刺激によって生じた生体の反発力・適応力(緊張など)を意味します。生体を取り巻く環境は常に変化しており、人間もこうした生体の一種である以上、環境の変化に適応する能力を備えているはずです。しかしわたしたちは、外的環境を一定に保つことばかりに専心して、心身を環境に変化させることが疎かになってしまいました。これが、環境変化(ストレス)に弱い人間を生み出している理由の一半であると考えられます。過保護がもたらす弊害は人間の心身にも大きな影響を及ぼしているのです。

 過保護には、さらに看過できない副作用があります。それは、自己判断力の欠如です。日本では、観光客の立ち入るような崖などに、数十メートル手前から「この先、危険」などの注意板が設置され、必ずといってよいほど手すりが備わっています。他方、欧米などでは目も眩むような絶壁に転落防止の柵すらない場所もあり(ただしその代わり、「自分の責任で景観を楽しむように」などという趣旨の警告標示が立っている場合が多い)、わたしたちから見て驚くほど自己責任の原則が徹底しています。崖が高いほど、安全のために柵を設けるというのが日本人の常識的な発想です。しかし、ここがまさに個々人の自己責任の覚悟を問うべきところなのでしょう。柵があれば、たしかに安心です。柵がない場合は、必然的に自らが警戒せざるを得ません。あえて人々の警戒心を高めるために柵をつくらず、基本的に自己責任とさせるのがいかにも欧米的な発想です。実際、観光地の断崖絶壁と同様に、わたしたちの人生は成人して以降、自己責任による決断と行動を問われる局面の連続です。人生においても、足元に気をつけずに注意警戒を怠ると、たちどころに崖から転落してしまいます。そういう意味では、「人生は自己責任だ」とみなす姿勢の方が自らの緊張感を高め、むしろ結果的に安全かつ大過なく日々を送ることができるとも言えます。

 自己責任の原則を無条件に個人の人生および社会現象のすべてに適用することには疑問がありますが、この原則を個々人が自主的に「矜持」として掲げる社会を目指すことは、とりわけ日本において今後ますます必要となっていくでしょう。そして、こういった人間としての基本的な尊厳に直結する価値観は、人生の初期段階で教えられてこそ価値があると思われます。先の駅の例で言えば、プラットフォームに電車が入線してきた時点で、風圧を受け身体が思わぬ方向に動いて電車に接触しないように、一歩下がって適度の距離を置くという行動。それは本来、人から注意を喚起されなくとも、自分自身で考え、行動すべき根本常識の問題です。万事において、さながら幼稚園児のように外部の保護や補助に守られ、それに慣れ親しんで甘えきっている現況から脱却して、個々の自己責任が人生においてきわめて大切なことであるという点を改めて考える必要があります。そのためには、それ相当の知識および判断力が不可欠です。そうした自己防衛のための総合的な精神の働きこそが「智慧」というものであり、これには的確な判断力(仏教では「正見」という)と思慮深さ(「正思」)が相乗されています。自己責任と智慧とは表裏一体を成します。

 戦後、日本は廃墟から立ち直り、驚異的な経済成長を成し遂げましたが、米国の傘(軍事・外交・政治・経済)の下で国家として自己責任の意識が希薄なまま今日に至っています。しかし近年の中国や韓国による反日行動は、これからの国際社会の中で日本が自助性に富む独立した国家となるよう、ある意味で日本国民を警醒させてくれたのかもしれません。いわゆる「尖閣諸島・竹島問題」は図らずも、日本が自己責任を全うできる「独立国家」かどうかを試す恰好の試金石となりました。加えて国民の視点で言えば、いかなる事故や災害が起きた場合でも、初動の対応はもちろん、その後の行動は危機管理の上から極めて大切です。その際にとるべき行動は、置かれている条件や立場の中で最も効果的な手段や対応を自ら決断するということに尽きます。少なくとも、国や行政からの指示を待っている暇はありません。これには、日頃からの透徹した識見と、周到なる注意力が肝心であり、自分たちの命と財産は自らが守るという強固不屈な意志が求められます。かくのごとく、危機管理は他人に委ねるものではありません。

 実は、国家も同じことです。国民の生命、領土・領海、国家主権を守ることを、他国に委ねて済む時代はもう終わりを告げたといってよいでしょう。しかし、現下の日本社会は、危機管理に対してあたかも思考停止状態に陥っているかのようです。個人は組織に、組織は社会に、そして社会は国家に過大な依存をしている一方で、情報分析を行って決断を下すべき各界各層の責任者たちはその任を十分に果たしているとは言いがたい。こうした「危機管理に対する思考停止」状況は、まさしく過保護と責任回避に連鎖された日本の特徴的な社会的現象の一つとみなし得るものです。わたしたち日本人が物質的には潤沢になった日本をこのまま世界の先進国として維持したいと願うのであれば、自己責任に裏打ちされた個々の主体性を重んじる社会を形成していくことが求められます。

 では、仏教は「自己責任」をどうとらえているのか。仏教には「因果応報」という言葉があります。これは、自分がおこなうすべての行為の結果は、長い時間をかけても最終的に我が身に立ち戻ってくるという、きわめて当たり前の原理です。そして、実生活に対する釈尊の教えの最大の特徴は何かと問われれば、「自己鍛錬の追求」であるといえます。すなわち、神秘的あるいは怪異的な力を信ぜず、生きていく上での苦悩をあくまでも自分固有の問題と考え、自己改良の中に解決策を求める。仏教はある意味で、徹底した個人主義の教えです。そこには同時に、一人ひとりの人権を尊重するという意味合いも含意されています。仏教では一般の人に対して、旧約聖書の「モーゼの十戒」のように、「汝、~~するなかれ」という命令形はほとんど使いません。キリスト教やイスラム教に見られる、父権的な指示強制の原理を採用していないのです。「こういうことをすれば、こういう結果になる」と、「原因と結果」(因果)の道理を示すだけです。わたしたちは一人ひとり完全に独立した個人であり、誰にも支配されておらず、身も心も自由ですが、その反面、ある行動を為したことの結果責任は、あくまでその当人に帰せられます。それ故にこそ、「自己責任」を強く自覚して生きるべきなのです。その生き方が真に身につくと、「悪事を働けば、必ずや自分自身にその結果が巡ってくる。故に自分は決して悪に手を染めまい」と、周囲からの悪い影響や誘惑を跳ね返して生きていけるようになるはずです。

 わたしたちは常に自身の過去を背負って生きていますが、その先に控える「自分はどう生きようとしているのか」という自問の前提には、自己責任の範囲をどの程度にとらえるのか、ということへの問いがあります。たしかに、わたしたちの幸不幸の分かれ目を考えてみると、それは極端に自分だけの責任でもなければ、極端に他人だけの責任でもありません。自分と周囲との関わり方の如何によって結果に違いが生まれる場合も少なくありません。しかし、どのように周囲と関わるかということは、自身の責任判断の範疇になります。世の中を一変させることは個人の力ではほとんど無理な所業ですが、自分の心を管理することは意思次第で今からでも可能です。その前提となる心構えは、自らの行動や選択の結果から逃げることなく、最終的にその全責任を否応なく負うという仏法の摂理に見いだされます。仏教ではこれを「自業自得」とも呼びます。この考え方は、自分の行動のあらゆることについて、責任転嫁を許さない、という意味を持っています。しかし自業自得の道理をわきまえた上であれば、たとえ行動の結果が不首尾あるいは不本意であったにしても、必ずその現実を出発点とした新たな展開があるはずです。というのも、生じた好ましくない結果が未来にまで自動的に継続する、と仏教ではとらえていないからです。未来の「果」は、現在の自分がいかに心機一転して行動するかにかかっている、と教えます。したがって、自己責任の原則を常に忘れずに、過去の行状を省察して現在の状況を総括しながら、未来への洞察を深めることが重要です。

 「自らを灯明とせよ」とは、釈尊が亡くなる際の最後の言葉だとされています。灯明は暗い夜道を歩く時に用いる明かりであり、わたしたちの人生にも、迷うことなく進むべき道を照らしてくれる光が必要です。闇の中で途方にくれて時間を無駄にするよりも、一歩ずつでも自分自身を灯火として、前に進むことが大事なのです。世間ではよく「困った時の神頼み」といいますが、困難に直面すると、どうしても何かに頼って解決しようとしがちです。これに対して釈尊は、自分を頼りとし、自らの智慧と努力によって歩んで行きなさいと誡めているのです。言い換えれば、人の言葉を絶対視せず、自分の頭で考えて生きよ、ということです。自分の人生であるならば、誰かに我が人生を預け、任せることなどできません。何事もすべて自己責任であるからこそ、常に自分を頼りとすることができるように、日頃から万事に対して甘えを排し、絶えず自らを研鑽し、すべてを先ず疑い(客観性を重視)、自身の責任において理解、納得、決断する。その暁には、決定したことで生じる物事の結末がどうであれ、その責を他に転嫁したり、逃げ隠れすることなき潔さと心のゆとりが生まれるに相違ないでしょう。

 危急存亡の状況に立たされたときほど、その人の真価が問われるものです。自分の人生に対する責任のありようは人それぞれですが、何を我が人生に対する責任と考えるかによって、生き方が変わってきます。しかし自分の生き方に責任を持とうとすれば、一日一日をいい加減に過ごさず、自分なりに熟慮して周到に行動するようになっていくはずです。その積み重ねが貴重な経験および財産となり、実り豊かな人生を送れるようになるのではないでしょうか。自分の下した選択と判断に正面から向き合い、自分の人生体験をかたちづくるのはあくまで自分自身であり、なおかつ人生は我が身の行動に報いるものであるということに確信を抱くべきでしょう。


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