後悔
- 明輪寺 / 空性寺

- 7 日前
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なにかの折に人生の来し方を振り返るとき、「あの時、違う行動をしておけば・・・」という思いが浮かんでくることがあります。「後の祭り」とはよく言いますが、人は年を経るにつれ、自分の過去を回顧して種々に後悔することが多いものです。また私たちは往々にして、因があっての果ではなく、その逆に結果から原因を作り出して、「ああすればよかった、こうすればよかった」と、自分には別の選択肢が「あの時点」ではあったはずだと思い悩むことがあります。ただし、本当にその時点において自分には選択の自由というものがあったのか。「あの時、そうしないこともできたはずだ」、あるいは「あの時、気づくことができたはずだ」等々は、すべて後付けの理屈であり、「あの時」に自分のなかで展開していた心の動きは誰に強制されたわけではないのです。そこにこそ「後悔」にまつわる問題の不条理さがあると言えます。
私たちはこの「後悔」という精神作用を通じて、かつて自身が招いた大小さまざまな失敗や禍の原因あるいは契機を反芻しつつ、過去の自分の行動を現在の自分の姿に重ねて投影させます。その際、もはや時計の針を巻き戻すことのできない「あの時」の不手際や過失について苦い思いが沸き起こるのです。しかし過去の行為に対する後悔は、一度後悔したら頭の中に固定されるのではなく、人生の経験を重ねていくに従って、それに対する見方も変わってきます。最初は激しく後悔の念に苛まれるような場合であっても、後に「むしろ、かえってあれでよかったのだ」と思うことすらある一方、逆に当初はさほどの悔恨の意識はなくとも、その後の新たな出来事との遭遇によって次第に大きな意味を担うようになり、従前に増して深刻な後悔につながることもあります。後悔の有り様は時として、過去の自身の不本意な言動をどう解釈して得心の境地に結びつけつつ、これからの人生をどのように再構築していくべきか、という自問にまで及んでいます。
中国の古い故事に「人間万事塞翁が馬」という、我が国でもよく知られた小話があります。・・・昔、北辺に暮らす老人(塞翁)の飼っていた馬が逃げたが、後にその馬は立派な馬を連れて戻ってきた。老人の息子がその馬から落ちて脚を折ったが、その息子は結果として兵役を免れて命が助かった・・・。この故事の要諦は、人生の吉凶は単純に定めがたく、幸運も喜ぶに足らず、不幸もまた悲しむにあたらないとの喩えとされています。つまり、人生における様々な展開の帰結は後になってみないとわからない、ということです。災難や辛酸を嘗めるような事態に遭遇した後は得てして「自分の選択は間違っていたのではないのか」という慙愧の念に駆られがちです。他方で、現状に満足し、充実感を味わっているならば、過去のあらゆる艱難辛苦も、「あれがなければ今の私はなかった」という安堵の源になることもあります。冒頭のように「もしあの時、ああしていれば・・・」と思うこともありますが、それはあくまで現時点の判断であり、今後もそう思い続けていくのかは自身すら確信を抱くことなどできません。あとで状況が変わって、「やはりこうしておいてよかった」と思い直すことなども、往々にして経験するものです。まさに人生は「糾える縄の如し」です。すでに起こった過去の事実は、考え方や捉え方ひとつで良くも悪くも転じ得ます。
いずれにしても「後悔」とは、日常の些細な判断や重大な決断を含め、過去の特定の選択の結果を強く気に病む鬱屈の心理であり、「自分の選択は果たして正解だったのだろうか」という疑念を伴う追想です。後悔の本質は「過去志向」であるがゆえに、心の安定した日常を再び取り戻したいのであれば、その思考様態から脱して「未来志向」に転じるべきであることは自明の理です。さらに加えて人生全体に関わる問題としては、夢や願望の実現に向かって積極果敢に行動していくことが、将来、後悔しない生き方になるということにつながるはずですが、現実はそう思い描いたようには具合良くいきません。つまり、自分の理想を追いかけたり、やりたいことを精一杯やっていれば、後悔をしない人生になるのでしょうか。ところが実際は、自分の為したかった事を遂げた上に、誰もが羨望するほどの業績を残した人でも、後悔とは無縁の日々を送っていたかというと、必ずしもそうとは言えないようです。傍から見れば贅沢極まりない我儘な悩みと映りますが、その当人はやはり他の選択肢に未練を残している場合があります。事程左様に、後悔という感情は人の心を千々に掻き乱すものです。戦国時代、貧農足軽の身から天下を統一して太閤にまで上り詰め、欲しいものは何でも手に入れたであろう豊臣秀吉は、次のような辞世の句を残したと言われています(注:秀吉が実際に臨終の枕頭でこの句を認めたのか、については異論異説あり)。
露と落ち露と消えにし我が身かな
難波のことも夢のまた夢
(訳例:我が身は一滴の露としてこの世に生まれ出て、露の如く消えていく。難波での栄華の日々は、あたかも夢の中で夢を見ているようなものであったのか・・・)
位人臣を極めた男の辞世にしては、人の世の儚さのようなものが感じられます。他方では、死を前にして人生の苦楽のすべてが夢の中の夢であったという慨嘆は、後悔の念とは異なる心情なのでしょうか。ただ言えることは、天下人といえども死ぬ時は身一つ。思い残すことなく、悔いなくこの世を去っていけるかどうかについては、社会的名声も富貴も関係ないのです。
後悔をするなかで私たちを最も苦しめるものは、「あり得べき理想の自分」を達成できなかったことへの無念な思いでしょう。つまり、間違いを犯したことや為すべき事を果たさなかったことなどは、実は本当になりたかった自分になれなかったことほどには、心を悩ませはしません。私たちは自分の人生を総括評価するとき、理想の自己に向かって歩んできたか、なりたかった人間になっているか、を第一に考えます。人生という旅路で常に前方に期待をもって見据えていたものが、自分にとっての何にも増して願わしく映る光彩に満ちた風景だからです。一方、日々の生活における不手際あるいは約束の不履行などによる後悔の重みは、いわば道路にできた浅い窪みにふとしたはずみで足を取られるようなものです。たしかにそうした類の後悔は暫時の悔悛をもたらす事柄ではありますが、その穴隙を通り過ぎてしまえばそれまでです。爾後の忙しい日常に紛れ、いつしか忘れ去ってしまうことが殆どです。
では次に、行動を起こしたことを後悔する場合と、行動を起こさなかった場合の後悔についてはどのような違いがあるのでしょうか。どちらもたしかに悔やみの種をもたらしますが、後者の後悔の念は前者よりも一般的で、かつ長く続く傾向にあります。例えば、道端で苦しそうに蹲っていて傍目にも明らかに救助が必要な他人を見かけた時、「第一発見者としての状況説明など時間のかかることに巻き込まれたくないから」と自分の判断を正当化して、立ち止まらず、その人を助けなかった場合など、その時に目にした光景は後々まで心に焼付いて脳裏から離れないものです。他方、何らかの行動を起こして失敗あるいは不首尾であった場合、一時的には大きな悔恨を感じますが、いずれ立ち直って「人生の学び」として昇華させる精神的な成長の源に転じることもできます。つまり、行動を起こした上での失敗は新たな展望を開く可能性も皆無ではありませんが、為さなかった事に対する後悔は軌道修正できません。最初から何もしていない事については、軌道修正それ自体あり得ないのです。いつまでも人の心につきまとい悩ませるのは、行動を起こさなかったこと、挑戦しなかったことです。
昔の行動をただ悔やみ、自分に都合の良い未来が訪れることを待望している間に、大切な「今」はすぐに過ぎ去ってしまいます。変えることができない過去に拘る心が、後悔で味わう苦さです。いかなる処世上の問題への対応も、問題発生時と同じ意識を保ったままでは解決の道筋を得ることができません。意識が変われば過去の意味も必然的に変わるはずです。人生の転機は、自分の想定外のところからやってきます。人は過去において幾度も人生の岐路に遭遇しますが、そのなかには前向きあるいは積極的に選択したわけでなかった状況がその後の展開を大きく変えるものもあります。どの選択をするかで、それが以後の人生に大きな影響を与えることも事実です。しかし先の成り行きを誰も確信をもって予想し得ない以上、「これは後で決して後悔しない選択だ」と断じることのできる根拠など、どこを探してもありません。
後悔の対象の多くは二度と繰り返されない状況での出来事であるため、再挑戦も謝罪弁解もできず、それがために煩悶し、痛苦を味わうのは残念ながら止むを得ません。しかしながら、自分にとって認め難い記憶としてその過去の映像を見つめ続けることにより、不納得の感情は自分を許せない心理に転じ、ひいてはその自責の念が憤り、怒り、憎悪を引き起こすことさえあります。ただし、後悔の渦中にある当人は無意識のうちに「後悔している自分」を演じつつ、目の前の現実から逃げています。現実世界に身をおいて生きている自分の「今」を直視できずに過去の自分に逃げ込むことは、「自己愛」に溺れた弱者の姿でしかありません。したがってこの状態から自らが抜け出るには、誤魔化さずに後悔の心地悪さと正直に向き合うことが第一歩となります。これまでの人生に起こった無数の出来事や現象について、それらを解釈し、意味づけできる人間は、所詮、自分自身以外にいません。逆に言うと、過去の経験の意味は自分で自由に選べるのです。つまり、過去の行動の良否について、いずれに焦点を当てて意味づけを施すのかで、過去の事象のそれぞれは自分にとって毒にも薬にもなり得ます。むろん過去を変えることはできませんが、違う箇所から、あるいは違う角度で見直すことで過去への意味づけを自在に変えることはできるはずです。人生の機微を窺う上で、「後悔」の正体とそれに係る人間心理を深堀りしてみることは、あながち無益な作業と言えないでしょう。
「後悔すると先に進む力を失う」。これは、戦友をすべて失い、最後はジャングルでの孤立無援の生活を送り続けた太平洋戦争時の旧軍人として、日本の敗戦後約30年ぶりにフィリピンのルバング島から救出された小野田寛郎元陸軍少尉が残した言葉です。生き延びるために物資略奪や島民殺害などを犯さざるを得ない極限状況のなかで、「後悔」に浸る暇なく毎日を懸命に生き抜いてきたことだけは間違いありません。また、「私は過去を振り返って、あの時ああだったからと参考にすることはある」とも述べていたそうです。彼にとって過去の事は、今を生き、明日につなげるための「参考」以外のなにものでもないという一言は、現代の私たちにも少なからぬ示唆を与えているように思われます。
了



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