進化・進歩・退化
- 明輪寺 / 空性寺

- 7 日前
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英国人博物学者ダーウィン(1809~1882)が『種の起源』(1859年)で展開した、いわゆる「進化論」は理科の教科書にも登場する現代の科学的常識です。そして言うまでもなく、人間も他の動物と同様に、長いあいだの進化を経てきた自然界の産物であり、何百万年もの昔に東アフリカの片隅で原人(人類の祖先)が他の類人猿と決別して二足歩行を始めたと推測されています。それはあたかも、生後かなり経って這うことを始めた幼児が一年を過ぎるころ、ある日突然立ち上って覚束ない足取りで歩き出す様子に重なってみえます。原人と幼児のこの相似は、大きな愕きであると同時に名状しがたい神秘でもあります。それは偶然の進化であるといえば、そうであると言えます。しかしまた、そのように振舞うべく遺伝子レベルで決められ、準備されていたのだといえば、必然の成行きであったということもできます。他方で、二足歩行のみならず、両手を使って火をおこしたり、石器を作るようになることなどに象徴される人類独自の「進化」と並んで使われることの多い、もうひとつの似た概念である「進歩」という言葉について考えてみると、私たち現代人は果たして太古の人々と比べ、万般において進歩しているのでしょうか。ちなみに生物学における「進化」とは、種の多様化だけでなく、環境への適応による形態・機能・行動などの変化がみられる現象であり、「質の向上」が前提となっている「進歩」を必ずしも意味しているわけではありません。
20世紀以降にみられた先端科学技術の驚異的な革新は、私たちの生活を各方面で便利かつ快適にしました。しかし、たとえば簡易な人工知能を搭載した掃除機が勝手に部屋中を隈なく清掃してくれるのは誠に有り難いことではありますが、その一方、交通手段の発達によって歩く距離が激減した結果、運動不足を防ぐために室内運動器具などを使って歩数を補う人が増えているという現象はどう捉えたらよいのか。自動車や鉄道は長い距離を歩く量を減らすために技術開発されたにも拘わらず、それらによって不要になったはずの運動を時間と費用をかけて改めて行う—-なんとも皮肉なものです。ただし少なくとも、現代人の運動不足はごく最近—-この1世紀ほど—-の出来事であり、人類が進化してきた本来の姿とは相いれません。長く歩くことが健康の維持に不可欠でありながら、技術が進歩するにつれ、身体能力の劣化を心配しなければならない時代に、私たちはすでに突入しているのです。近年話題の自動運転車の開発についても、これが本格的に実用化された暁には、車の故障時に備えて運転技術の維持に必要な注意力や反射神経の退廃を防ぐための対策についても、常日頃から頭に入れて心身の対応を怠らないでいることが必須となるでしょう。
進化の原理に基づけば、常に快適で居心地の良い環境が生み出されるに従い、生物は変化に適応するための努力を必要としなくなります。しかし身体の機能は適度に使うことで発達し、使わなければ当然ながら衰えていきます。普段、意識することは少ないかもしれませんが、地上での私たちの生活動作は常に地球の重力に抗って行われています。つまり、私たちが身体や物を動かすこと自体が筋力の維持にとって不可欠な刺激となっているのです。現代人は硬いものを良く噛んで咀嚼する代わりに、柔らかいものを好んで食べる食習慣に変わり、顎の咀嚼力は少しずつ退化を示してきました。また、今後は仕事の機械化や自動プログラム化がますます進み、必要事項を入力すると労せずして答えが出るため、これまで人間を人間たらしめていた「思考力」も徐々に失われていきかねません。膨大な量の情報や知識がいつでも、どこでも瞬時に手に入るならば、それらを吟味し、解釈し、記憶する必要がなくなるでしょう。ただ脳の表面を滑り抜けていくだけです。特にそうした象徴例のひとつが、スマートフォンなど携帯電話の劇的な高機能化です。まさに電話番号を「覚える」という努力が不要となったほか、行きたい場所への道筋も画面上で即座に表示されることで、方向感覚を掴む、地理状況を頭に入れる、地図を読むなどの脳内作業が激減しました。人と落ち合う約束をしていて時間に遅れそうになっても、「遅れる」というメッセージを相手にすぐ送信できるため、「約束の時間を厳守する」という従来の一般常識にも影響が現れているように見受けられます。こうして並べてみると、人々がこれまで努力して身につけてきた能力や当たり前だと思っていた社会規範の一部すら崩れつつあるとも言えます。
本来、人間に限らずあらゆる生物は自然環境の中で自らが周囲のさまざまな現象の変化を把握し、それに反応して学び、その学びを知恵として蓄積していきます。私たちの場合はその源泉が、情報の収集・分析・活用という一連の精神機能です。ただし、これらは幼少期に自らの成長と連動しながら徐々に高めていくからこそ無理なく身につくものです。しかし近年は手軽に情報が手に入る反面、その情報に対する解釈力や分析力が十全に伴っていないため、逆にそうした利便性は人間の脳の正常な成長曲線を崩し、いつの日にかこれまで人類が経験していない類の思考回路を形成してしまう恐れがあります。畢竟、人間の精神が時代と共に成長し、歴史も時代を追って、より完成に向うという楽天的な信念—-「何事も進歩し続けなければならない」という進歩史観—-をそろそろ見直すべき時期に来ているのかもしれません。いかなる文明の利器も使い方次第で人間にとって吉にも凶にもなり得ます。通常、「便利」は「不便」に対する創意工夫の成果です。しかしながら至便な環境が生活に浸透するようになると、与えられた便利なものからだけ選択していくようなことが日常的になってきます。その帰結として、自ら評価し判断し、苦労し工夫して段取りをする能力が知らず知らずのうちに低下していくことはどうしても避けられません。生活の多くの局面において、やがては手間がかかる事や複雑な事を避けるようになり、本当に必要なものが何であったかを理解せず、便利なものに刹那的、衝動的に飛びついていく傾向が募る一方となるでしょう。
文明の進歩によって、それまで多くの時間や労力を費やしていた事を短時間で手軽に済ませられ、時間的にも精神的にもゆとりのある生活が実現できるであろうと、かつては誰もが期待していました。しかし現実は、便利になった分だけ、先述のように生物としての人間は環境の変化に対する抵抗力や対応力が加速度的に弱まってきました。技術の発達は一面において歓迎すべき進歩の証ですが、社会生活でのその「当たり前」の閾値が上がっていくことで、それが当たり前でなくなった時の心身の負の変化についても考慮していかなければなりません。人間の欲望というものは際限なく広がっていくばかりで、私たちは「進歩」によって生じた欲望肥大化の流れに否応なく背中を押され、その有り様はさながら「焦燥感」そのものです。さらに熟考・熟慮を厭って安直に便利さを追求するあまり、その快適さが機能しなくなった際には、いわゆる「寛容さ」が消え失せてストレスや怒りを極度に感じてしまいがちになります。
近代社会はさまざまな技術を駆使しながら、自然淘汰の脅威から人間の生存を守ってきました。その恩恵として、先進国に生きる人々は平均寿命が延び、乳児死亡率が減少し、体格が向上しました。しかし現状に座したままでいると、動かなくてよい、考えなくてよい、楽をしたいだけすればよい、となって、筋力は衰え、脳力が劣化し、免疫力は低下するなど、私たちの心身の各所でいわゆる廃用萎縮が徐々に進んでいくことは不可避です。人々はこれまで、科学技術の発展による地球環境の悪化については各方面で論じてきましたが、「自分自身」—-最も大切かつ最も身近な「環境」そのもの—-に関する破壊については、ほとんど認識しないか、たとえある程度は意識していたとしても軽視してきたと言えます。
また、「進歩」のみに人生の意義を委ねると、ひたすら前進していくことばかりを考えて退却や中座を恐れるようになり、内に秘めた本来の力である潜在可能性に対する自信が揺らいでしまう結果となります。さらにはこれが常態化することによって、孤独感、不安、無価値感などの心の不安定さが引き起こされかねません。そして、いつしか私たちは自分らしく生きることではなく、「劣等感」を代表とした比較感情の穴を塞ぐことが人生の目的となっていくのです。科学技術の進歩がそのまま人間自体の進歩に重ならないことは従来から繰り返し主張されているところですが、どう制御していけばよいかについては実効性の高い方策が残念ながら未だ見い出せていません。人類は20世紀に入り、2度の世界大戦やそれに続く壮絶な悲劇を体験しながらも、自由、博愛、平等といった倫理性を涵養しながら世の中を少しでも改善・高度化していこうとする努力を重ねてきました。少し前までは、科学技術も精神性もこれからさらに進歩していくものと世界中の大方の人が信じて疑わなかったはずです。しかしながら現在は、急激にその楽観的な展望は色褪せて、これ以上先に進むことができないのではないかという懸念あるいは閉塞感が私たちのあいだで鎌首をもたげつつあるように感じられます。つまり、今後はゆるやかに人間社会の紐帯が弱化衰微していく一方なのではないかという、どこか悲観的あるいは末世的な見通しです。進化とはある面では「進歩」の概念をも含むものですが、進化の本質は冒頭に紹介した「変化」だけでなく、「多様化」というところにあります。そうした進化の多様性に加え、人間にとって真の進歩とは何かについて、一人ひとりの問題として考える必要性が改めて求められています。
人間が自分の人生の目的や意味を考えることができるのは、他の生物にはない大きな特徴です。私たちが目的意識をもち、困難な状況に耐え、洞察力を駆使して未来に立ち向かうという資質を備え得たのは、紛れもなく「人類の生存にとって有利」な進化の余禄です。しかしそれは「人間中心」主義を無条件に肯定するものではなく、私たちは他の動物と比べ、決して特別に選ばれた存在などではありません。ダーウィンは進化の謎を解き明かそうとして画期的な理論を構築しましたが、その主旨を一本の大樹の成長に喩えるならば、多くの生物は原始生命体という共通の祖先の「幹」から大きな枝、中程度の枝、小枝が伸びるように生まれてきたものである、ということです。途中で枯れ落ちた枝、嵐でもぎ取られた枝など無数の枝が失われました。幸運に恵まれて、太陽の光を受け取ることができる葉を茂らせた枝が生き残っただけなのです。要するに、進化と絶滅の歴史を生物は繰り返してきましたが、生き残った生物より絶滅した生物種の方が圧倒的に多いことも忘れてはならない事実です。
これからの時代は、人工知能や遺伝子改変など革新的な技術が社会で広く普及活用され、私たちの想像をはるかに超えた次元で進展していくことは疑いありません。他方でその内実は、あたかも在来コンピュータの動作原理の基本が0と1の組み合わせだけで成り立っているが如く、社会の理想像や個人の資質が無機質な数字の集積として割り切られるような時代に身を置きつつあるということの裏返しでもあります。人類の歴史を振り返れば、社会や経済は時代を経るごとに複雑化していますが、「進み」さえすればどのような方向に進んでも、それらをすべて私たちの幸福増進につながる「進歩」とみなすわけにはいきません。人類が目指すべき望ましい道を歩んでいるのか否か、おそらく誰にも先を見通せないとはいえ、そもそも「進化」には方向性も目的もないばかりか、優劣や賢愚などの「価値」とはまったく無関係であり、生物の進化は人間を頂点に押し上げるために一本道で進んできたものではない、ということだけは再認識すべきでしょう。
了



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