固定観念
- 明輪寺 / 空性寺

- 7 日前
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「固定観念」とは、絶えず私たちの意識を支配し、それによって言動が規定あるいは制限されるような「疑いを入れない強固な思い」を指します。固定観念は誰しも多かれ少なかれ持っており、それが当人の価値観や判断基準になっていたり、あたかも性格の一部のようになっていることもあります。しかしその度合いが嵩じると、周囲の状況変化に際しても人の意見を聞かずに自分の考え方や捉え方に固執し、さらには思い込みが激しくなる結果、柔軟な発想や適切な判断を妨げてしまうことがあります。一般に「理念」、「原理主義」、「信念」などの概念も、基本的に疑うことのない「物事を考える上での確固たる方向性」であり、ある種の固定観念と言えるのかもしれません。ただし留意すべきことは、固定観念それ自体が問題なのではなく、あくまでも「その観念が現在の状況において時宜に適い、有効に機能しているのか」が問われるべきであるという点です。その際、必要なのは「変わりゆくもの」と「変わらぬもの」に対するそれぞれの本質的な価値の見定めでしょう。
固定観念に囚われている人は往々にして、自分の思念を正当化するのに都合の良い情報や出来事にばかり目を向け、それらに対する思いへの執着を強めていく傾向がみられます。そうなると、眼前で起きている現象や変化を正しく把握できず、いわば心理的な「視野狭窄」に陥ることとなります。ただ、そうした思考様式を完全に捨て去ることができないのは、それが自身の中で「当然のごとく正しいもの」として積み上がって形成されてきた産物だからです。幼少期から得てきた知識や経験は当人固有の貴重な精神的財産であり、むろん何をおいても大切にすべきものですが、闊達自在な思考を養い、それを実生活に役立つようにするためには、そうした知識・経験だけに頼っているだけでは不十分です。自分の周りを虚心に見渡しつつ、今まで深く考えずに反射的に判断してきた事柄の一つひとつについて、改めて「なぜこのやり方でやってきたのだろう」と振り返ってみると、意外に「これ」といった理由もなく惰性で継続していたということも多いはずです。さらに言えば、一生をかけて守り抜くほどの絶対的な価値観あるいは人生観など最初から存在しないのかもしれない、と腹を括ることも時には必要となるでしょう。それはつまり、たとえば数学上の公理や定理は別として、心から信じるに値する確固不動の評価基準(正解)など本当に有るのか、という疑念です。仮にもし有るとすれば、これこそが固定観念を正当化できると仮定したときの唯一の拠り所だからです。たしかに固定観念は多くの場合、今日までの自身の思考の基盤でもあり、それを安易に捨て去ると、自分の足場が根底から崩れることにもつながりかねません。いわば水面から上に浮かび上がっている「思考」とは、日々頭の中に自然と湧いてくる考えのことです。その最も深層にある「信念」とは、何を正しいと信じるのか、日々の生活において何を大切にしているのか、私たちの根源的な価値観にほかなりません。それは人格の基底であり、意志の力だけで変更や修正を加えるのはきわめて困難です。しかし、後生大事にしてきた「信念」を放擲したほうがよい局面が、人生においては時として生じ得ます。挫折に遭遇したり、失意を得た際に自分の新たな方向性を見出すための「覚悟」—「信念」という名の固定観念をどう扱うか、あるいは扱っていくか—が問われるのは、まさにその瞬間です。
とは言いつつも、逆に固定観念を自ら全否定すると、常識も規範も先人の知恵もすべて無視して、唯我独尊的な言動に陥ってしまう危険性があります。このような生き方をすることが果たして個人、さらには社会全体にとって望ましい姿であるかは、考えてみるまでもありません。その一方で皮肉なことに、自分の潜在的可能性を信じて情熱的な生き方に我が人生を捧げるためには、当人が一貫継続して抱いている何らかの固定観念の支えがなければ不可能であるという現実があります。いずれにしても、「固定観念」は適切な局面で使う限りにおいて人生の有用な手段として活用し得ますが、状況によって功罪の両面をもたらすということです。結局、弊害となる要素は、考え方や見方を変えなければならない時あるいは再検討すべき状況下において、そうしなかったが為に自身の精神的な成熟の機会を見過ごしたり、突破力・創造力が生まれないという点に集約されます。したがって、個人の生き方や世界観、人生の意味、あるいは社会の変遷や時代の流れなどのように、一義的な解が出ないものを理解したり、対処しようとする時にこそ、思考の有り様を多面的かつ流動的にする必要があります。常に、新しい異なる光の当て方ができないかを念頭に置くべき、とも換言できます。
固定観念に凝り固まっている姿は、いわば「自縄自縛」に等しい状態です。これは文字通り、自分が手にしている縄で我が身を縛ることです。つまりは、大局的にみれば意味のない拘りによって自身を縛り、本来ならば問題なく得られるはずの「自由」から自ら遠ざかってしまう現象です。しかし、この「拘り」は、知識や経験が増えるほどに、比例して強くなっていくのが困ったところです。物事を知れば知るほどに真理や本質が逆に見えにくくなるというのは、誰にとっても落とし穴になることなのでしょう。私たちは概して物心つく頃から、「〜しなければならない」、「こうあるべき」という、家庭や社会からの他律的な価値観に囲まれて生きてきました。それらに従い、適応するうちに、自分が本当に為すべき事や為したい事が何であるのか、わからなくなっていきます。そして、いつの間にか自分の中でも当たり前となり、そのまま人生観と自己像が固定してしまうのです。これが、私たちの生き方から精神の自由が失われていく原因の大きな要素です。しかし考えてみれば、一生肌身から離してはならない「自己像」など、果たしてあるのでしょうか。
ちなみに、さらに人類的な視点まで広げると、過去・現在を通して世紀の大発明や大発見が「固定観念」を打破することで得られた例は枚挙に暇がありません。たとえば、ニュートン(1643-1727)はいわゆる「空間」と「時間」を絶対不変の存在と考え、20世紀に入るまで世界中の科学者の誰一人それについて疑義を挟む者はいませんでした。しかしアインシュタイン(1879-1955)はその事自体を疑い、広大無辺な宇宙空間にまで前提を拡大した結果、「空間」と「時間」は絶対的存在ではなく、重力の影響によって空間が曲がり、さらには時間の進み方にも違いが生じるはずであるという、驚天動地の結論を導き出したのです。いままで当たり前と思って生きてきた自らの軌跡の意味を改めて検証するのは根気と忍耐を要するものですが、自身が抱えている様々な固定観念の連鎖を整理してみることで、新しい景色が見えてくるはずです。先の見通しにくい時代のなかで旧弊な価値観に振り回されすぎないためには、自分の側で物事の受け取り方を考えていくしかありません。目の前にある現実を捉える際に、物事を可能な限り多面的かつ積極的に解釈してみる。その結果、表層的な決めつけや感情的な偏見ではなく、深い把握と決意から出る「主観」であれば、それは自身の独自性としてむしろ研ぎ澄ませていくべきものです。「客観」に基づく論理・科学は、物事を把握する土台として、また、多くの人を承服させる手段として重要なものですが、それ自体は目的を与えてくれるものではありません。肯定的な意味での「主観的に考える」—-すなわち、物事に自分なりの解釈を与えること—-これによって目的と意味が創出されるのです。
私たちは常日頃、自らを理性的で冷静な判断ができる人間でありたいと願っています。しかし残念ながら、自分の信じたい説や信念を検証する際、それを支持補強する情報ばかりを集め、反証する情報には目を背けがちです。その結果、一度信じてしまうと、それが誤っていてもなかなかその記憶を訂正することができないばかりか、自分の方が間違っている可能性があるという頭の中の警報に耳を傾けません。人は一般に、科学的根拠に基づく事実を知らされた後でも、「信じたくないものは信じない」、「見たくないものは見ない」という拭い難い性癖をもっています。とりわけ現代は、皆が自分の信じたい情報だけを鵜呑みにして対話を交えない「分断の時代」を現出しているように思われます。その極端な一例として、現代においてもアメリカ人の一部は「進化論」を断固否定していると言われています。あるいは、いわゆる「天動説」(地球が宇宙の中心であり、太陽や惑星を含むあらゆる天体は地球の周りを回っているというヨーロッパ中世までの天文的理解)なども、かつては多くの人が疑問にも思わずに抱いていた概念でした。これも、大地は動かずに天空の方が回転しているはず、という壮大な「固定観念」のひとつですが、今やそのような天文観を抱いている人は誰もいないでしょう。そうした科学の世界のみならず、社会制度を例にとれば、将来いつの日か現代の民主主義や資本主義すら「古い観念」として遺物扱いされる可能性も十分あるのです。
さまざまな経験を積み重ね、人生の荒波を上手く乗り越えてきたと自負する人ほど、独りよがりの考えに陥っていないか、己の言動を虚心に振り返るべきでしょう。いつしか、自信過剰と独善によって人の進言や忠告を排除し、周囲との壁をつくった挙げ句、逆に自分の頭で考える習慣を失い、行動や判断の幅が制限されてしまい、転落の憂き目にあう人は古今東西、跡を絶ちません。また、わずか一つの視点での感じ方や印象によって「こうなのだ」と決めつけることは、自身で生き方の幅を狭めてしまう結果を招きます。いかなる物事や事象にも、必ず複数の視点で捉えることが可能な「余地」があるものです。自分の中で無意識に決めていた規範を外すことができれば、思考・行動に対する自己規制の度合いが少なくなっていきます。人は自分の思い描いている物事を自身の行動に反映させ、その行動の積み重ねが人生を形成していきます。その際、仮になんらかの強固な「思い込み」が自分の活動範囲をあえて限定していたとするのならば、今までの固定観念を疑ってみることは、人生の展開に新たな転機を加えるうえできわめて有益でしょう。つまり、自身の日常において漠然とした不満や障害を感じていたり、行き詰まっていることがあるのならば、自分では意識してこなかった特定の「固定観念」にその原因があるのではないか、と自問自答してみる絶好の機会ともいえます。その先には必ずしも自分が望むような答えや素晴らしい結果ばかりがあるとは限らないでしょう。今まで信じていた事や思っていた事と違う現実を知って愕然とすることがあるかもしれません。しかし、一方から見ていては気付けないことや決めつけてしまっていることがたくさんあるはずです。固定観念から脱却するということは、多くの視点を持てるようになるということと同義です。
私たちが日々の生活で抱えている悩み事や問題の多くは、それらを「今」の自分では解消し難いと感じているものばかりです。つまり自分の側で正しいと信じてきた無数の固定観念の中に解決策がないからこそ、「問題」であると認識して悩むわけです。しかし、いかに古い型に細工をしてみても、徒に弥縫に陥るだけです。そのときにこそ、社会の「しがらみ」に因らず、「これが世の中の常識」と決めつけることなく、さらには「世間の大多数は正しい」と思い込まないようにする「知恵」が必要となります。それ故、今までの思考様式とは違うかたちでの飛躍を得て精神の成長を果たすうえで、自分にとって何が生来の固定観念—-自分自身のなかの常識—-であるのか、洗い直す必要性が生じてくるのです。
了



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